来年のベートーヴェン没後200年に向けて、クラシック音楽界ではあらためてベートーヴェンに注目が集まっています。今週はヴァイオリンの辻彩奈さん、ピアノの阪田知樹さんをお招きして、ベートーヴェンの大傑作、「クロイツェル・ソナタ」の第1楽章を演奏していただきました。おふたりも話していたように、まるで交響曲のようなスケールの大きさ。スリリングな演奏に圧倒されました。
この曲はジョージ・ブリッジタワーという名のアフリカとヨーロッパにルーツを持つヴァイオリニストによって初演されました。ベートーヴェンはブリッジタワーの演奏に感激し、いったんは曲を献呈すると決めます。ところがある女性を巡ってブリッジタワーとベートーヴェンがつまらない喧嘩をしたことから、献呈は取り止めに。代わりに当代一流の名手、クロイツェルに献呈されたのですが、クロイツェルは一度もこの曲を演奏していません。それにもかかわらず、「クロイツェル・ソナタ」の名が定着してしまったのです。
文豪トルストイはこの曲に触発されて、中篇小説「クロイツェル・ソナタ」を残しました。この小説の主人公は、妻が音楽仲間の男性ヴァイオリニストとベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」を共演する様子から、ふたりの関係を疑い、嫉妬心から妻を刺し殺してしまいます。ベートーヴェンの曲は理性を揺さぶり、情念を突き動かすものとして描かれています。
そして、このトルストイの小説に感銘を受けたのが、チェコの作曲家ヤナーチェクです。ヤナーチェクは弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」で、抑圧された女性の情念や苦悩を表現しています。おもしろいのは、ヤナーチェクは殺される妻の側に共感して曲を書いている点でしょう。
こうしてクロイツェルの名は音楽から文学へ、さらに文学から音楽へと伝えられていきますが、もともとはブリッジタワーの名が付くべき作品だったことを思い出すと、複雑な気分になりますね。
飯尾洋一(音楽ジャーナリスト)

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