福間洸太朗さんと森下唯さん、おふたりとも唖然とするようなテクニックを披露してくれました。今週は「難しいピアノ曲を弾く音楽家たち」。高度な技術を持つ名人演奏家のことを「ヴィルトゥオーソ」と呼びますが、まさにふたりは若きヴィルトゥオーソ。番組内ではカジュアルな装いで登場して、バリバリと難曲を弾いてくれました。ステージ上とはまた違ったカッコよさがありましたよね。
福間さんが弾いたストラヴィンスキー作曲、アゴスティ編曲の「火の鳥」より「凶悪の踊り」では、オーケストラのために書かれた原曲の持つ色彩感をどうピアノで表現するのかが難しいという話がありました。ピアニストはそこまで考えて演奏しているんですね。鍵盤上で広い音域を手が高速移動するところも鮮やかです。超絶技巧なのですが、あまりに当たり前にできていて簡単そうに錯覚してしまうというか……。それにしてもこの曲、演奏効果が抜群です。リサイタルで演奏すれば、客席がもりあがることは確実でしょう。
森下唯さんはアルカンの「鉄道」を演奏してくれました。アルカンは決して一般になじみ深い作曲家とはいえないでしょうが、森下さんはアルカン作品の紹介に力を入れており、リサイタルやレコーディングに加え、アルカンの楽譜の校訂・解説なども行っています。
この「鉄道」からは、とてつもないスピード感が伝わってきます。19世紀の曲ですので、鉄道といっても蒸気機関車なのでしょうが、今のわたしたちにとっては新幹線、いや、リニアモーターカーくらいの強烈さです。見知らぬ土地へと連れて行ってくれるようなワクワク感を感じませんでしたか。窓の外を風景が流れていったり、汽笛が鳴ったり。技巧は技巧そのものを目的としているのではなく、表現のためにあるだということも納得できます。この速度で演奏するからこそ、最新テクノロジーを目の当たりにした人々の驚きが表現できるのでしょう。
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難しいピアノ曲を弾く音楽家たち
テーマ曲の秘密を知る音楽会
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
新年第1回目の放送は「テーマ曲の秘密を知る音楽会」。映画「君の名は。」の新海誠監督、ドラマ「ドクターX」の作曲家・沢田完さんから、ヒット作のテーマ曲にある背景について、お話をうかがうことができました。
「ドクターX」といえば口笛が印象的ですが、沢田さんによればこのテーマ曲は「西部劇やマカロニウエスタンの雰囲気」。これには納得。本来かけ離れたものである医療ドラマと西部劇を結び付けたところが斬新です。「ロッキーのテーマのように、同じテーマを反復することでチャレンジする気持ちを表現できる」というお話も、おもしろかったですよね。クラシック音楽の名曲でいえば、ラヴェルの「ボレロ」でもやはり反復が高揚感をもたらしていると思います。シンプルであるがゆえの力強さといえるでしょうか。
新海誠監督のお話で驚いたのは、映画「君の名は。」における音楽の重要性。できあがったストーリーに音楽が添えられるのではなく、監督とRADWIMPSの野田洋次郎さんとの対話を通じて音楽が作られ、ときには音楽が物語やセリフにも影響を与えたといいますから、いかに監督が音楽の持つ力を重視しているかがうかがえます。
最後は同じ物語から日米で異なる種類の音楽が生まれてきた例として、「七人の侍」と「荒野の七人」のテーマ曲が演奏されました。前者は登場人物の心理を、後者は情景を音楽で表現したものということでしたが、心理と情景のどちらに焦点を当てるかというのは、広くテーマ曲一般について語りうる話題だと思います。たとえばオペラの序曲だったらどうでしょう。モーツァルトの「フィガロの結婚」では登場人物のハッピーな気分が反映されているけど、ロッシーニの「ウィリアム・テル」は情景描写がベースになっているな……などと、ついあれこれ考えてしまいます。
くるみ割り人形の音楽会
「くるみ割り人形」の「花のワルツ」って、本当にすばらしい名曲ですよね。これほど高揚感にあふれたワルツはほかにありません。
チャイコフスキーはこのバレエのために、惜しみなく名曲を注ぎこみました。一作のなかに信じられないほどの密度で名曲が詰め込まれているという点で、バレエの「くるみ割り人形」はオペラの「カルメン」と双璧をなしているのではないでしょうか。
この「くるみ割り人形」、曲が有名な割には、意外とストーリーは知られていないような気がします。りりしい王子様に姿を変えたくるみ割り人形が、少女クララをお菓子の国へと招きます。お菓子の精たちに歓待されるクララ。で、この話はどう終わるのでしょうか?
結末はあいまいです。バレエにはセリフがありませんので、振付によっていろいろな解釈が可能です。クララが夢から覚めるという「夢オチ」がひとつの基本形となっているでしょうか。素敵な王子様もお菓子の国もみんな少女の夢だった。夢から覚めたら、ベッドのそばにいたのは元通りのくるみ割り人形……。
「くるみ割り人形」の物語の元となっているのはE.T.A.ホフマンのメルヘン「くるみ割り人形とねずみの王様」です。原作の結末は単なる「夢オチ」では終わりません。主人公(バレエではクララですが、原作ではマリーといいます)が目を覚まして、お菓子の国から現実に戻るのですが、そこからまだ話が続くのです。ドロッセルマイヤーさんが甥の青年を連れてきます。この青年は主人公とふたりきりになると、自分が助けてもらったくるみ割り人形だと告げて、少女を花嫁にして旅立っていくのです。
この原作でもやはり結末はあいまいです。少女が本当に結婚したとも解せますし、夢の続きを見ていたとも読めます。いずれにせよ解釈のひとつとして、「少女が育ってやがて親元を離れていく」という含意を読み取ることは可能でしょう。なかなか味わい深い物語だと思います。
吹奏楽部を知る音楽会Ⅲ
吹奏楽部も強豪校やマンモス校ともなれば部員が100人を超える大所帯も珍しくはないでしょう。しかし世は少子化。なかには年々生徒数が減り続け、部員の確保に苦労するといった学校もあるのではないでしょうか。
だったら少人数であることをむしろ強みに変えるような作戦があるのでは? 本日の「吹奏楽部を知る音楽会Ⅲ」では、サクソフォン奏者の上野耕平さんとこぱんだウインドオーケストラのみなさんが、そんな小編成吹奏楽の奥義を教えてくれました。
上野さん、本当にアイディアが豊かですよね。なるほど、こんな手があったのかと、思わず膝を打ってしまいます。
特にいいなと思ったのは、編成を絞った「華麗なる舞曲」。吹奏楽の難曲として知られる作品ですが、軽快で歯切れよい演奏は新鮮でした。単に少人数で演奏効果を出すということ以上に、演奏のクォリティ自体を高めることにつながっていたように思います。
吹奏楽に限らずオーケストラでもそうですが、一般に編成が大きくなればなるほど、迫力が増す代わりに、細かい音の動きをピタッと合わせることが難しくなり、音の輪郭はぼやけてきます。小編成だから可能な小気味よさ、機動力、メンバー間の親密な音の対話というものがあるはず。そもそも曲によっては、あまり大きな編成にしないほうが、作品が生きてくる場合も多いんじゃないかな、とも感じます。
最後の「ハッピー」はカッコよかったですよね。譜面台をなくすということは暗譜が必須になりますが、視覚的な効果は絶大です。客席のノリが確実に違ってくるのではないでしょうか。
協奏曲の音楽会
今週は「協奏曲の音楽会」。反田恭平さんと五嶋龍さんのソロと、アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルハーモニー交響楽団が共演するという豪華な組合せが実現しました。聴きごたえがありましたよね。
現在大ブレイク中の反田恭平さんが弾いたのは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番より第1楽章。フィギュアスケートやテレビドラマなどでも使用される人気曲で、おそらく今コンサートでもっとも演奏機会の多い協奏曲ではないでしょうか。自身が大ピアニストでもあったラフマニノフの作品だけに、高度で華麗な技巧が要求される作品です。反田さんはイタリアでこの協奏曲をバッティストーニ指揮でレコーディングしたばかり。オーケストラは異なりますが、ピアノと指揮が息の合ったところを聴かせてくれました。
五嶋龍さんが演奏したのはプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番より第1楽章。こちらは今春、龍さんがヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団との来日公演で演奏して好評を博したのが記憶に新しいところ。アイロニーやユーモア、リリシズムが渾然一体となったプロコフィエフの魅力がひしひしと伝わってきました。
ラフマニノフもプロコフィエフもどちらもロシア生まれの作曲家です。ともに祖国を離れて活躍しましたが、両者がたどった運命は対照的です。
ロシア革命直後に身一つで祖国を離れ、1918年からアメリカに定住し、その後二度と祖国の土を踏むことがなかったラフマニノフ。彼にとって創作の源泉はロシアの大地。アメリカ移住後はめっきり作品が少なくなってしまいます。
一方、プロコフィエフはやはり革命後にアメリカに亡命し、さらにパリに移り住みますが、1936年に成功を求めてソ連に帰国を果たします。帰国後も作品は書かれたものの、他のソ連の作曲家たちと同様にスターリン政権下の文化統制により、創作活動は制約されてしまいました。奇しくもスターリンと同じ日に世を去ったため、プロコフィエフの訃報はひっそりと伝えられたのみだったといいます。
ふたりの作品を並べて聴くと、どちらの決断が正しかったのかと、つい考えてしまいます。
バッティストーニの音楽会
指揮者って不思議な職業ですよね。自分では一音も演奏しないにもかかわらず、オーケストラの演奏に対する最終的な責任を負うのが指揮者。指揮者は楽曲に対する自分のイメージや解釈をオーケストラの団員たちに伝えなければいけません。
本日は「アンドレア・バッティストーニの音楽会」。若きイタリアの俊英が、表情豊かに東京フィルハーモニー交響楽団を指揮してくれました。一曲目の「カヴァレリア・ルスティカーナ」では、バッティストーニは指揮棒を置いて両手で音楽の表情を指示し、オーケストラから情感豊かな音楽を紡ぎ出していました。バッティストーニのジェスチャーに、オーケストラが鋭敏に反応するのを感じていただけたでしょうか。これは指揮者とオーケストラの間に信頼関係があってこそ。
つい先日、バッティストーニがこの東京フィルの首席指揮者に就任すると発表されました。オーケストラの顔ともいえるポジションに、29歳の若い指揮者が抜擢されたことに驚きますが、引く手あまたの若い才能との密接な共同作業は、楽団に大きな実りをもたらしてくれることでしょう。経験がものをいう指揮者の世界では、40代でもまだ若手、70代、80代になってようやく巨匠と呼ばれることが一般的。しかし近年は、有望な若手指揮者に早くから重要なポジションを任せるという世界的なトレンドがうかがえます。まさにバッティストーニもそんな新世代の指揮者のひとり。これから大指揮者への道を歩んでいくのでしょう。
最後に演奏されたヴェルディの「運命の力」序曲はバッティストーニ得意の一曲。すごい迫力でしたよね。ダイナミックな指揮ぶりからもうかがえるように、バッティストーニの音楽はとても熱い音楽です。しかし、熱いだけではなく、細部まで音楽を彫琢する緻密さも併せ持っているところに、彼の非凡さを感じました。
武満徹の魅力を語る音楽家たち
作曲家のなかには、生前名声を誇っていても没後急速に忘れ去られてゆく人と、亡くなっても変わらず作品が演奏され続ける人がいます。
前者の例は、モーツァルトのライバルとして知られるサリエリ。生前はモーツァルトをしのぐ権勢を誇りましたが、現在彼の作品が演奏されることはまれです。オペラ作曲家マイヤベーアも、存命中はヨーロッパ中に名声をとどろかせましたが、今その作品が上演されることはめったにありません。
武満徹は後者のタイプです。1996年に世を去った後も、世界中で武満作品は演奏され続けています。佐渡裕さんが2011年にベルリン・フィルの定期演奏会に招かれた際に、ショスタコーヴィチと並んで指揮したのは武満徹の「フロム・ミー・フローズ・ホワット・ユー・コール・タイム」。30分近くある大きな作品です。
日本人だけではなく、欧米の演奏家もすでに20世紀の古典として武満作品を演奏しています。その意味では、武満作品は「クラシック音楽」の仲間入りを果たしたといってよいでしょう。
武満徹はシリアスなオーケストラ作品のみならず、ギター曲や歌、映画音楽でも親しまれています。本日の「武満徹の魅力を語る音楽家たち」では、谷川俊太郎さん、渡辺香津美さん、鈴木大介さんといった、ゆかりの方々が武満徹の魅力を語ってくださいました。
特に印象的だったのは谷川さんによる武満徹の人物評。ご自身の詩による「死んだ男の残したものは」について語る場面で、「武満ってもっと軽やかで明るいんですよね、人間もそうですし」とおっしゃっていました。少し意外な感じがしました。
今年没後20年を迎えて、武満徹の作品は各地のコンサートで盛んに演奏されています。節目の年を機に、改めて武満作品の魅力に気づかされたという方も少なくないのではないでしょうか。
リズムを楽しむ音楽家たち
今週はスタジオにU-zhaanさんと石若駿さんのおふたりの打楽器奏者をお招きしました。インドの打楽器タブラと、西洋楽器のドラム。同じ打楽器といっても、それぞれまったく違った世界が広がっていることに驚かされます。
タブラはほとんどの日本人にとってなじみの薄い楽器だと思いますが、思いのほか澄んだ音の美しさが印象的でした。龍さんが試しに叩いてみても音がしっかり鳴らなかったように、まず芯のある音を出すのが難しそうです。
U-zhaanさんの、タブラには楽譜がないというお話もおもしろかったですね。それぞれの音に呼び方があって、それを師から弟子へと伝える。しかも複数の音をひとつの呼び方であらわすこともある。そんな独自の体系をマスターしなければいけないというのですから、なるほど、これは習得困難な楽器だと納得できます。
一方、石若駿さんは若くしてジャズ・ドラマーとして才能を見出されながらも、東京芸大でクラシック音楽の伝統的な教育を受けたという逸材です。ジャンルの壁など軽々と超えてしまう大器として、注目を集めています。
そんな石若駿さんがビブラフォンを演奏してU-zhaanさんと共演したのが、マイケル・ジャクソンの「ヒューマン・ネイチャー」。作曲はTOTOのオリジナル・メンバー、スティーヴ・ポーカロ。これは名曲ですね。マイケル・ジャクソンの原曲では、歌詞で歌われる「都会の喧騒のなかで味わう孤独」といった気分が寂しげな曲想ににじみ出ていますが、このタブラ&ビブラフォン・バージョンでは、空が白んで夜明けを迎えるような雰囲気が加えて感じられました。タブラとビブラフォンの音色が独特の浮遊感を醸し出していたのもよかったですよね。
ジャンルを超えた音楽家たち
アルバム「SPARK」がこの4月に全米ビルボード・ジャズ・チャート第1位に輝いた上原ひろみさん。日本人がアメリカでジャズのチャートのトップに立つという快挙を成し遂げました。そんな上原ひろみさんが、新日本フィルのコンサートマスターである西江辰郎さんとご縁があったとは意外でした。おふたりは昨年のクリスマス・コンサート「上原ひろみwith新日本フィル」で、上原さんのオリジナル曲をオーケストラアレンジで共演した間柄なのだとか。
上原さんがパッヘルベルの「カノン」を例に、クラシックとジャズの比較をしてくれたのが、とてもおもしろかったですよね。クラシックは楽譜に書かれている通りに弾く。でもジャズは即興(アドリブ)によってメロディを自由に変化させる。両ジャンルの違いが端的に示されていました。
でも、実はクラシックもかつては即興演奏がごく一般的に行われていました。龍さんのお話にも少しありましたが、モーツァルトが生きていた時代には、お客さんはモーツァルトの自作と同様に、モーツァルトの即興演奏を楽しみにしていたのです。その場で与えられたメロディをもとに、音楽家が自在に即興するという、現在のジャズのようなことがごく普通に行われていました。
それが時代を下るとともに、即興的な要素は失われ、作曲家があらかじめ考え抜いた音をその通りに演奏することが尊重されるようになっていきました。たとえば協奏曲にはカデンツァという独奏者の自由に任されている部分があります。これはかつては独奏者が即興を披露する(まさに上原さんが弾いてくれたように)聴かせどころだったのですが、やがて作曲者が事前にカデンツァも用意するようになりました。
なぜそうなったのか、一言では説明できそうにありませんが、音楽の姿は時代とともに変わっていくもの。ジャズもまたこれからどんどん変化していくはずです。そして、音楽のジャンルというものは、常に流動的なものなのでしょう。
オーケストラで高揚する音楽会
DJとオーケストラ。ぜんぜん別世界のもののようでいて、実は親和性は高いのかもしれません。今週の「オーケストラで高揚する音楽会」では、ジェフ・ミルズがDJとオーケストラのコラボレーションを披露してくれました。オーケストラの重厚なサウンドをまとったジェフ・ミルズの楽曲が、新鮮な躍動感を生み出していました。
オーケストラの演奏中にDJがなにをしているのか、一見、わかりづらいかもしれませんが、龍さんの解説にもあったように、これもライブ・パフォーマンスであり「演奏」だったんですね。一種の即興演奏のようなものと理解すればよいのでしょうか。
ビートが生み出す陶酔感は、クラシックの名曲にも共通する音楽の本質的な魅力だと思います。ハチャトゥリアンの「剣の舞」はまさにその好例でしょう。この曲はバレエ「ガイーヌ」の一場面のために書かれた音楽ですが、強烈なリズムは、いかにも民族舞曲風に聞こえます。民族衣装をまとった剣士が情熱的に踊る様子が目に浮かんでくるかのよう。
「剣の舞」には、バレエ初演の前日に大急ぎで書きあげられたという逸話が残っています。急遽舞曲が必要になったのですぐに一曲書いてくれと頼まれたハチャトゥリアンは、机をいろいろなリズムで叩きながら、なにか剣舞にふさわしい新しいリズムはないかと考えます。これというリズムが思いつかず夜通し悩み続けたところ、ようやく明け方近くになって「剣の舞」のリズムを考え出して、「これだ!」と一気に曲を書きあげたといいます。考えに考え抜いて作り出したリズムが、あたかも古くからの民族舞曲のように聞こえるというのがおもしろいところ。
ひとたび「剣の舞」を聴くと曲が耳にこびりついて離れないのですが、ジェフ・ミルズの The Bells も同じように頭に残りませんか。中毒性があるといいますか、クセになるといいますか……。この両者、やはりどこかでつながっているのかも。