米軍基地にて
2026年06月28日

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 6月23日と言えば東京は梅雨の真っ盛り、沖縄はちょうど梅雨が明ける頃にあたる。毎回この「沖縄慰霊の日」に現地を訪ねるたびに、熱気が肌にまとわりつく独特の空気にひたる。ここで地上戦が展開され、多くの人が命を落としたのだと思いを致しながら。

 「今もどこかで戦争が続いている 人間は戦う必然性を克服するほど進化していないからです」。とても難しい言い方だが、僕は彼の言うことが理解できた。ここは、浦添市にある米海兵隊基地、「キャンプ・キンザー」に設けられた戦争資料館。インタビューに応じてくれたクリス・マジェスキー館長の話である。
 祖父は兵士として沖縄に従軍したそうだ。自らも海兵隊員として沖縄で勤務した。日本人の妻と3人の娘がいて、日本暮らしはもう33年。現在は、沖縄戦が日米双方にもたらした悲惨を後世に伝えるために、この戦争資料館の館長を務め、展示物の収集にも熱心に取り組んでいる。

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 ことしの「沖縄慰霊の日」をどう伝えるか。番組スタッフの間で出た意見が、沖縄戦をアメリカの側から見てはどうかというものだった。そこで取材対象となったひとつが、米軍から見た沖縄戦の歴史を展示するこの現場だ。
 激烈な地上戦が展開された沖縄では、県民の4人にひとりが命を落としたとされる。多くの日本軍兵士もまた悲惨な最期を迎えた。一方、沖縄戦では米軍にもまた1万人を超える死者が出た。アメリカの戦争史の中でも悲惨を極めた戦いのひとつである。

 マジェスキー館長は、日米双方にとって、できるだけフラットに、偏りのない展示となるよう心がけているという。一角に、ひめゆり学徒隊たちが使っていた小さな医療用カバンがあった。赤い十字の刺繍がある。このカバンを肩にかけて、壕の中で傷病兵の看護にあたっていたのだ。信楽焼の小さな壺のようなものも展示されていた。鉄不足に陥った日本兵が手りゅう弾として使っていたものだという。金属ではない分、破壊力は劣っていた。
 当時の米軍の作戦の概要も紹介されていた。そして、穴だらけで原形をととどめていない水筒が置かれていた。上陸した米海兵隊員のものだ。館長によるとこの水筒だけで30発の弾痕が確認できるという。つまりこの兵士は、身体にいったい何発の銃弾を浴びたことだろう。遠く祖国を離れ、最期に見たのは沖縄の梅雨空だったのだろうか。

 マジェスキー館長は戦争の悲惨さを語り継ぐ。戦争は決してあってはならないと考えている。一方で、軍は必要なものであり、軍人としてのキャリアにも誇りを持っている。
 「戦争は必ず起きる。誰かが戦いを望み、征服や略奪を意図すれば、それを阻止するのが良心ある人々の役目です。時には戦争に赴くことも必要です」と彼は言った。そして、「私は日本とアメリカの行為を断罪する立場にない。私は、ただ歴史を伝えたい。何が起きたのかを説明し、後世に伝えたい」と力を込めた。

 資料館の取材を終え、宜野湾市の普天間基地の近くにある「CINDY(シンディ)」という名前のバーを訪ねた。創業から57年。基地に駐留するアメリカ海兵隊員たちが通い続ける。
 きらびやかな照明の一方、時間の重みを感じさせる店だ。その最大の理由が壁や天井にびっしりと貼られた「紙幣」である。ほとんどが客としてきた米兵たちが貼った1ドル札で、その数はもはや数えるのが困難だ。紙幣には兵士の名前や部隊名などが書いてある。何かの記念にそこに紙幣を貼っていく習慣は、いつの頃からか広まっていた。

 とりわけ古び、くすんだ紙幣が貼られている一角がある。オーナーの長堂清子(ながどう・きよこ)さんによると、ベトナム戦争のとき、基地から戦地へと向かう兵士たちが残したものだという。紙幣を残すのは、生きて帰ってこられますようにという一種の願掛けだった。祖国に残した恋人の名前などを紙幣に書き込む兵士もいた。そして、かなりの数の兵士は帰還が叶わなかった。

 沖縄には今も日本の米軍基地の約7割が集中し、安全保障の要衝と位置付けられている。そして、沖縄の基地は防衛の拠点であるのみならず、アメリカが展開する戦争にあたっての派兵拠点でもあり続けた。
 ベトナム戦争がそうだった。湾岸戦争も然りだ。そして最近では、アメリカがイランに対して行った攻撃のために、多くの米兵が沖縄から派遣されたとも言われている。実際、沖縄本島北部のキャンプ・ハンセン近くの繁華街では、この春先から街を行き交う米兵の姿が大幅に減ったという住民の肌感覚も聞いた。

 一方、当然のことながら兵士もまた人間である。「CINDY」の壁面に自分の恋人の名前を書き残して旅立ったのは、素朴なアメリカ青年そのものでもあった。だが、僕はそこでしばし思考を止めた。ウクライナへのロシアの全面侵攻から1年が経った2023年の2月、首都キーウの国立歴史博物館を取材した経験を思い出したのだ。

 そこには戦場で収集されたロシア兵の「遺品」が多数並べられていた。少年のあどけなさが残る兵士の顔写真。「訓練だと言われて来たのに、戦争に巻き込まれてしまうとは」と、嘆きの言葉にあふれた日記帳。
 「ロシア兵も人間。こうした遺品を展示すること自体、つらくないですか」との僕の問いかけに、女性の学芸員はやや表情を硬くして答えた。「これらは、侵略者が持っていたものです。侵略者は、女性や母親、子どもたちを含むウクライナ人を殺し、ウクライナの土地を奪うために来たのです。私はそう見ています」。

 ウクライナでは、まさに戦争は「今の現実」だった。幼げなロシア兵はあくまで侵略者であり、侵略される側からは彼を人間として見ることはできない。一方、日本が加害者となり、被害者ともなった戦争の終結からは81年が経ち、「今の現実」ではない。兵士も人間なのだと理解できる。それが時間の経過というものなのか。だがそれにしても、昭和の戦争を歴史として語るにはまだ早い。歴史となる前に、記録をバトンとしてリレーする第2、第3走者としての役割を、今を生きる我々の世代は果たさなければならない。

 「沖縄慰霊の日」の朝、糸満市の「摩文仁の丘」で平和の礎(いしじ)に手を合わせていた80代男性の言葉が忘れられない。「あの戦争は軍部が台頭した挙句に起きたもので、政治はむしろ戦争反対の側にいた。ところが今の戦争は世界じゅうで政治が主導している」。
 はっとした。ロシアも、アメリカも、イスラエルもそうだ。日本だって未来永劫そうならない保証などない。軍が政治を牛耳った反省に立ち、戦後の日本は文民統制(シビリアン・コントロール)という装置を取り入れたが、装置だけで万全なわけではない。権力は時に暴走する。そうさせないために目を光らせる必要がある。次の戦争を防ぐために。

(2026年6月28日)

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