

母は父親と兄の顔を知らずに育った。なぜなら、物心ついた頃にふたりはすでに世を去っていたからだ。それまで一家は北海道で暮らしていたが、大黒柱と長男を亡くし、母親(僕の祖母である)はさすがに物心ともに立ち行かなくなった。幼かった母とともに郷里の新潟に戻り、つつましく暮らしたという。
母の名は「律子」である。ところが祖母も周りの親戚も、「律子」と呼ばずに「ゆみ」とか「ゆみちゃん」と呼んでいた。「ゆみ」という呼び名が昔からあまりに自然に使われていたので、僕は疑問を抱かずに来たのだが、先日母と話しながらふと思い出し、「ゆみ」の由来を聞いてみた。すると「なんでだろうねえ」と、当の母もよく知らないらしい。のん気なものだ。一方で、「漢字だと『友美』と書く。それで『ゆみ』と読むの」と、少しばかり得意げだった。いい名前でしょと言わんばかりに。
その母が、先週11日の木曜日に他界した。
新潟市内で兄夫婦と長く同居し、最後の約半年は施設にお世話になったものの、健脚で健啖家だった。亡くなる4日前の日曜日には、僕と妻で母をドライブに連れ出し、母の郷里である寺泊という港町に出かけたばかりだった。魚の市場が人気の町で、観光客でにぎわっていた。人混みを避けたくて、少しひなびたところで食事をとろうと近くを探したのだが、母の胃袋には重そうな洋風のお店しか開いていない。
「私は大丈夫。何でも食べるから」という言葉を信じ、メニューの中で最もあっさりしていると思われる海鮮のスパゲティを頼むと、母は嫌いな貝類だけをポイポイと僕や妻の方に取り分けながら、ぺろりとひと皿を平らげた。
そんな風だったから、木曜の朝9時過ぎ、母が意識不明だという報せを受けたときは面食らった。すでに母の心臓は止まっていたそうだ。母は兄の元に戻り、僕と妻が駆けつけた時には白い布団にくるまり、顔に白い布をかけられて横たわっていた。
施設で普通に朝食を食べたあと、自室で椅子に座り、テレビを見ながら絶命したらしい。医師でもある兄は、「心臓が悪かったから。でも苦しまなかったはずだ」との見立てである。時計の針が止まるようにして逝ったのだろう。
母の横で、兄とぼんやりと話をした。「ところで、どうして母さんは『ゆみ』と呼ばれていたんだろう?」と僕が聞くと、兄は「さあ…」としばし考えこみ、「昔は結核と言えば命取りだった。だから、あえて別名で呼ぶことにしたのかも」とぽつりと言った。
この背景には母の不遇がある。母の父と兄が早逝したのは結核が原因だった。
そこで僕なりにこんな風に考えた。親族からすれば、まだ小さな「律子」という女の子まで、結核という悪魔に持っていかれるわけにはいかない。だから本名を隠し、「ゆみ」という架空の名前で呼ぶことで悪魔の目をそらしたのだと。
そう言えば、父も妻である母のことを「ゆみ」と呼んでいた。兄がおかしそうに言った。「親父が独身のとき、母さんの実家に来ては『ゆみさんを、お借りします!』と言ってデートに誘っていたんだってさ」。
父は生真面目で一本やりの人だった。6歳下の母をどこでどうやって見初めたのだろう。ずいぶん昔、僕がふたりに馴れ初めを聞くと、「見合い結婚だよ」とはぐらかしていたが、どうやら兄が得ている情報の方が正しそうだ。戦後の貧しい時代のことである。
子どものころ、父や母がもしこの世からいなくなったら、どんなに悲しいだろうと考えたものだ。そんなことを考えることすら恐ろしかった。でも大人になれば、いろんなことに慣れたり強くなったりして、両親の死だって別につらくないのだろうと勝手に想像していた。その証拠に、たまに親戚の葬儀などに出ると、大人たちは神妙な顔など一瞬で、すぐさま平気で酒を飲んで笑っているではないか、と。
僕が28歳の時、父が他界した。僕はもう大人になっていたが、子どもの頃の想像とは違っていた。心に穴が開くとはこういうことかと思った。父が死んだ悲しみを簡単にやり過ごすことなどできなかった。そして母が逝った。僕は64歳であり、もう十分すぎるほど大人である。でもやはり、悲しくてやり切れない。子どもの頃の想像など全く的外れだった。
この日、弟夫婦も実家に合流し、3兄弟の家族で食卓を囲んだ。大人らしく酒も飲んだし笑いもしたが、3人ともそっと母の顔を覗きに行っては涙した。「いい歳になっても、こんなに泣けるものなんだな」と、兄は妙に納得顔で言った。
母は俳句が趣味だった。毎月発行される同人誌に長く投句を続けていた。去年の夏、僕は知人に協力してもらい、過去40年の同人誌のバックナンバーを調べた。掲載された母の句を拾い出して冊子にまとめ、プレゼントしたところ、母はたいそう喜んでくれた。
取り上げられた句の中でも、秀句に選ばれると選者の評がつくのだが、最後に秀句となった母の作品は3年前の春のものである。
若葉風おずおずマスクとつてみる
記された「評」にはこうあった。「コロナウィルス感染の実態が分かりにくくなってきた。心配しながらもマスクを外された作者は、若葉風の心地よさにしばしほっとされたかも」。
飾り気のない良い句だなと、僕も思う。
昭和の初期に生まれ、戦争を生き抜き、父と同じ新潟県庁職員となり、働きながら3人の息子を育てた。県庁を定年退職し、自分を最後まで「ゆみ」と呼んだ父に先立たれた後も、俳句や山歩きなどの趣味にいそしんだ。
そして母は、あのコロナ禍だって乗り切ったのだ。若葉風に吹かれ、おずおずとマスクを取った時、母は密かにウィルスへの勝利宣言をしたに違いない。
92歳の大往生だった。息子として誇らしい思いだ。しかしやはり、無性に悲しい。
(2026年6月15日)

