「ラッタッタ」と、音楽のリズムでも取るかのように駆け出した。この調子なら、信号が点滅し始めたとしても、青のうちに向こう側に渡れそうだ。そして予想どおり、僕は地面の力から押し返されるように、軽やかに国道の横断歩道を渡り切っていた。
これが5月の魔法だ。息が乱れることもなく、僕はそのまま歩き続けた。
世の中しんどいニュースであふれている。理解の難しいニュースも多く、果たしてうまく伝えきれただろうかと自問することばかりだ。だが5月の暖かな陽光とそよ風を浴びながら散歩をしていると、屈託はどこかに吹き飛び、ポジティブな思考が脳内に広がっていく。
30分ほど街なかを歩き、河川敷の遊歩道に出た。川に架かる鉄橋を電車が渡っていった。東京郊外を走る午後の下り電車は人影もまばらだ。
このコースを散歩するときの見慣れた光景だが、僕はふと考えた。自分の視界に入っているのは、確かに物理的な人の姿に過ぎない。けれども、当然ながら、そこにいるのは一人ひとりの人間であり、それぞれの人生がある。
前日の夜。番組終了後の反省会で総合デスクはこんなことを言っていた。道路陥没事故で行方不明になっていた男性の遺体が発見されたというニュースを振り返りながら。
「これまで、70代の運転手という『記号』でしか伝えることができませんでしたが、ご家族や会社のみなさんのコメントによって、ようやくその人柄が浮かび上がってきたように思います」。
埼玉県八潮市の道路陥没事故は、水路が迷路のように走る複雑な地下構造が影響して、男性の捜索などは難航を極めた。男性の発見は、事故から3か月以上が経っていた。
高度成長期に急ピッチで整備された日本のインフラは、老朽化が進み更新時期を迎えているが、対策がなかなか追いつかない。八潮市の事故は、そうした時代背景を映し出すものでもあり、われわれメディアは、発生当初から連日のように報道してきた。
3か月以上の間、安否がわからないままだった運転手の家族や会社の同僚たちは、さぞつらい思いをされたことと思う。大切な人の命とは別のところで、ニュースは社会問題として膨張し、空中を駆けめぐっていたのだからなおさらのはずだ。
そしてこの日、事故は悲しい節目を迎えたのだ。
公表された家族のコメントにはこうあった。以下はごく一部である。
「体が大きく、何かと頼れる父でした。少し頑固なところもありましたが、いつも笑顔で、とても優しく温厚な性格の父。私たちにとって、かけがえのない存在でした」。
男性が勤務する会社もコメントを出した。
「その性格のまま、とても優しい運転をされていました。会社の事にも気にかけて仕事をしてくれる、会社にとって大変貴重かつ余人をもって代えがたい人物でした。ご高齢にもかかわらずムードメーカー的存在で、帰社すると事務所内も自然と笑顔に包まれたものでした」。
僕たちの番組にできることは、思いの詰まったコメントの中身を、丁寧なナレーションとVTRの編集によって、できる限りそのまま伝えることだった。それによってかろうじて、70代の男性運転手という「記号」を越えた、愛する家族も仕事仲間もいるひとりの人格として、亡くなった男性を伝えることができるからだ。
VTRが終わり、画面がスタジオに切り替わると、僕はご家族と同僚の方々に心からのお悔やみを申し上げ、このニュースを締めくくった。
そんなことを思い返しながら、河川敷をさらに歩いた。
このあたりは、いろいろな植物が豊かな緑を競うように茂らせている。すると、くすんだ白っぽい花の房をつけた5メートルほどの木を見つけた。スマホで写真に撮って検索してみると、ニセアカシアという名前が出てきた。
アカシアの木は黄色く鮮やかな花を咲かせるそうだが、ニセアカシアの花はずいぶんと地味だ。だが、青空に向かって伸びる枝葉は旺盛そのものだ。ちなみにこの花から取る蜂蜜は、ずいぶん風味が良いらしい。
アカシアの偽ものみたいな名前はいかにも気の毒だが、控えめな花をつけるこの木がなんだか気に入った。僕はニュースキャスターという珍しい職種にある。目立つ仕事ではあるが番組の主役はあくまでニュースそのものであり、進行役であるキャスターが出しゃばり過ぎてはいけない。
その一方で、無味乾燥に言葉を発するだけなら機械で十分だ。人間であるキャスターが番組のナビゲーターを務める意味は何か。
70代男性の死亡が確認され、その家族と仕事先の思いの一端を知ることができたこの日は、事故に関わったあらゆる人たちの節目でもあった。過酷な環境の中で男性を捜索した消防などの関係者の苦労。発見までに3か月という時間を要したことの悔恨もあったかもしれない。そして、周辺住民には、陥没箇所の完全な復旧と対策工事に5年から7年もかかるという厳しい現実が待ち受ける。
同じ「お悔やみを申し上げます」という言葉の中にも、ひとつの事件に関わる複雑な事情に思いを致しながら語るのと、機械的に言語を発するのとでは違うはずである。自分は前者でありたいと思うし、視聴者にも単なる言葉以上のものが伝わることを願う。
気が付いたらもう2時間余り、10キロ以上歩いていた。しかし5月の魔法にかかった僕は、疲れをほとんど感じない。家に帰ってストレッチングをしていると、なぜか必ずコタローがやってきて、僕の横で気持ちよさそうにひっくり返る。時がゆっくり流れる。
これ以上、何もいらない。この小さな幸せを大事にしたい。同時に他者の幸せにも、そして痛みにも敏感な人間でありたいと、控えめに思う。
(2025年5月3日)