今朝、携帯のアラームで目が覚めて、布団への未練をなんとか断ち切って、
寝ぼけ眼をこすりながら洗面所に顔を洗いに向かうと、誰もいない静かな空間に、
男の人の軽快な喋り声が、空気のしたのほうを這うようにうっすらと聞こえてきて・・・。
髪を束ねた手を思わず止めてじっと聞き耳を立てて、音の道を辿っていくと・・・
なんのことはない、床に置いていたタブレットにつながったイヤホンから、
音が漏れ出していただけでした。
昨夜髪を乾かしながら見ていた動画、停止ボタンを押し忘れていて、夜中リピート再生されていた模様。
どうしようもない話ですみません。
で、その時、一瞬本気で頭をよぎったんです。
この声は現実に、耳に届いているもの?それとも、心が聴いているもの?
寝惚けていたんです。でもそれだけじゃなくて。
間違いなく、最近読み返して、ずっと頭にある本のせい。
「想像ラジオ」。
2年前の3月11日に出され大反響を呼び、芥川賞候補にもなった、いとうせいこうさんの小説です。
2時46分、海沿いの町で、
高い杉の木にひっかかったDJアークが軽妙に送るラジオ番組、「想像ラジオ」。
ただ、ラジオと言っても使うのは「想像」という電波。受信できるのは「あなたの想像力の中でだけ」。
そんな「想像ラジオ」を通して、DJアークがどういった人物なのか、リスナーはどんな人たちなのか、
そしてDJアークがラジオを送る理由などが、紐解かれていきます。
お察しの通り、小説は東日本大震災を背景に描かれています。
テーマとなっているのは、「生者」と「死者」との関係。
どんな風に死者に、被災者に向き合ったらいいのか、向き合うとはどういうことか、
私たちはいま、どうあるべきなんだろうか・・・など、
深く考えさせられます。
回数は本当に少ないのですが、震災後、取材で何度か被災地を訪れ、ボランティアも経験しました。
足を運べば運ぶほど、感じるのは「距離」でした。
あの震災をまさに「経験した」方たちと、そうでない自分との隔たり。
宮城県の雄勝町で出会った、大切な人も家も失った男性が、こんな表現をしていました。
「いったん死んだんだと思う。もう前までに見ていた世界には、戻れないんです、二度と。
いま、もういちど、産道を通っているような気がするんです。
そこは暗くて細くて、ちゃんとまた生まれることができるかどうかもわからないけれど」
思わず立ちすくむような光景、そこにうずくまるいくつものかなしみ。
距離を縮めようとすればするほど、
胸の内を想像しようとすればするほど、
むだなんじゃないかという思いが強くなりました。
当時のことをいろいろと思い返します。
東京でも街の明かりが消え、「自粛」ということばのもとにイベントや番組が見送られ、
余震におびえながら、防災グッズを買い集めて・・・。あの日を境に、変わってしまった。
そう思っていたはずなのに。たった4年前のことなのに。
なんでこんなに遠くになっているんだろう。
いや、遠くなっているんじゃなくて、
「遠ざけようと」してしまっているとしたら。
確かに「距離」はあるんだと思います。
でも。私はその「距離」に甘えて、心の耳を閉ざしてしまってはいないだろうか。
想像することを諦めてしまっていないだろうか。
震災のあった時代の日本を生きた一人の人間として、
節目の今日、自問しています。
「距離」があっても、自分にできること。
それは「並走」することなのかな、と、今日、改めて感じています。
巨大で、渦巻くように複雑で、底知れない何かが、
あの震災で亡くなった方々と、被災した方々と、そうではない自分とを隔てているとしても、
その間隔を理解しながら、別々の列車たちが線路を並走するみたいに、
ときにどうしてるかな?と向こうの車窓の様子を伺って、
ときにどこかのプラットホームでことばを掛け合って、
交わらなくてもスピードは合わせて、ともに進む気持ちを持てたら。
かっこつけかもしれないけれど、
そんなふうに、心で心に寄り添えるひとりになれたら、
10年後、100年後が違うって、信じたいです。
そのために、想像をやめないで、耳を傾けることを続けたい。
今日は、きっとそうやって、
ひとりひとりが考える日。
3月11日。
東日本大震災から、4年が経ちました。