17歳の従妹と過ごしたある日のこと。
「このスカート超ヤバい!これもヤバい!!ヤバいヤバい!」
「ヤバい遅れる、まじヤバい、ごめん、ヤバい」
「舞台始まるね。あーどうしよう、ヤバい、ヤバすぎる!!」
「ヤバい」が大活躍です。
思わずおばさんは聞いてしまいます。
「いつもそうやって、どんなことにも『ヤバい』連発するの?みんなそうなの?」
「え、結構まわりもみんなこんな感じなんだけど・・・これってヤバいのかな?」
「・・・うん、ヤバいかも・・・」
「やばい」を広辞苑で引くと、こう説明されています。
「不都合である。危険である」
本来はネガティブな意味でしか使われない「やばい」が、
若者の間でとても楽しい時や面白いこと、興奮するときなど、
プラスの感情の動きにも頻繁に使われるようになり、
今の「ヤバい(と表記させていただきます)」になったのは、
おそらく90年代から。私のちょうど中学~高校時代。
30を目前にして使うのが恥ずかしくなっていることを考えると、
まだ「若者言葉」の域は出ませんが、
いっときの流行語かと思いきや意外なロングランです。
この言葉の使い方に違和感や嫌悪感を抱く方も
もちろん大勢いらっしゃると思うんですが、
ここまでイチ若者言葉が何十年に渡って定着し、
さらに連発されるほどに拡張するには当然、
意味があるんだろうなぁと思うのです。
ということで、
「ヤバい」について考えてみました。
自分が「ヤバい」を使っていた時のことを思い出すと、
それ以外の言葉が浮かばなかったような気がするんですよね。
どうしようもなく心を揺さぶられるとき、
もはや「かわいい」だとか「楽しい」だとか
端的な言葉で表現できる状態を超えた心理状態のとき、使っていたような気がします。
何事も過ぎたるは及ばざるが如し。
楽しすぎると我を忘れ、好きすぎるとそれ以外のものが目に入らなくなる。
プラスの感情も行き過ぎると、マイナスの状況を生みかねません。
「もうなんだか気持ちが高ぶりすぎてどうしたらいいのかわからず、
このままこの気分に浸ると理性や冷静さを失ってしまいそうで、
『不都合』『危険』、つまりやばいのである」。
これをきゅきゅっと短縮させ、前段を省略したものを
「ヤバい」と表現しているのではないかと、そんな気がします。
大人だと「もの凄く」「非常に」「とっても」「大変」などを
頭に付けて表現するんでしょうが、
そんな綺麗な表現はこの感覚にはちょっとそぐわない・・・。
そんな若者たちにとって、言葉としての響きの良しあしは別として、
「ヤバい」は好都合にあらゆる心理状態を表現できる言葉なのかも、と思うのです。
そう考えると、若者ってクリエイティブ。
さらに、あらゆる状況を同じ言葉で表し、それを理解できている、
いわば「ツーカー」な空間が作り出した言葉、ともいえます。
伝えるスキルを持たずとも、お互いの意図を感じあい汲み取りあうことによって
なんとなく通じてしまう環境を、コミュニケーション学の用語で
「ハイコンテクスト」といいます。
対して、すべてを言葉や態度にあらわして表現する文化を
「ローコンテクスト」と表すんですが、
実はこの「ハイコンテクスト」、言外に漂う空気を読み
和を重んじる日本的なコミュニケーションスタイルそのものなんです。
「ヤバい」も、同じ感覚を共有している者同士でなければ
意味を正確に汲み取れない言葉。
とすると、「ヤバい」は極めて日本的な表現、ということも言えるのかもしれません。
そこまで突き詰めてみると、思い出す言葉があります。
枕草子で清少納言が連発していた「をかし」。
古典の授業で誰もが触れているこの古語ですが、
この言葉も、「趣がある」「興味深い」「素晴らしい」「美しい」、
あらゆる感情表現を兼ねているんですよね。
あれ、これって意外と、「ヤバい」と重なるんじゃ・・・。
昔の「いとをかし」は、今の「超ヤバい」だったりして。
なんて考えると、平安時代の女流作家が
ぐっと身近な存在になりますね。
数百年後、「ヤバい」はどんな言葉として辞書に残っているのでしょうね。
今後どこまで市民権を得るのか・・・。
「ヤバい」から、目が離せません。