3.11
2015年03月11日

今朝、携帯のアラームで目が覚めて、布団への未練をなんとか断ち切って、
寝ぼけ眼をこすりながら洗面所に顔を洗いに向かうと、誰もいない静かな空間に、
男の人の軽快な喋り声が、空気のしたのほうを這うようにうっすらと聞こえてきて・・・。
髪を束ねた手を思わず止めてじっと聞き耳を立てて、音の道を辿っていくと・・・
なんのことはない、床に置いていたタブレットにつながったイヤホンから、
音が漏れ出していただけでした。
昨夜髪を乾かしながら見ていた動画、停止ボタンを押し忘れていて、夜中リピート再生されていた模様。

どうしようもない話ですみません。

で、その時、一瞬本気で頭をよぎったんです。
この声は現実に、耳に届いているもの?それとも、心が聴いているもの?
寝惚けていたんです。でもそれだけじゃなくて。
間違いなく、最近読み返して、ずっと頭にある本のせい。

「想像ラジオ」。
2年前の3月11日に出され大反響を呼び、芥川賞候補にもなった、いとうせいこうさんの小説です。

2時46分、海沿いの町で、
高い杉の木にひっかかったDJアークが軽妙に送るラジオ番組、「想像ラジオ」。
ただ、ラジオと言っても使うのは「想像」という電波。受信できるのは「あなたの想像力の中でだけ」。
そんな「想像ラジオ」を通して、DJアークがどういった人物なのか、リスナーはどんな人たちなのか、
そしてDJアークがラジオを送る理由などが、紐解かれていきます。

お察しの通り、小説は東日本大震災を背景に描かれています。
テーマとなっているのは、「生者」と「死者」との関係。
どんな風に死者に、被災者に向き合ったらいいのか、向き合うとはどういうことか、
私たちはいま、どうあるべきなんだろうか・・・など、
深く考えさせられます。

回数は本当に少ないのですが、震災後、取材で何度か被災地を訪れ、ボランティアも経験しました。
足を運べば運ぶほど、感じるのは「距離」でした。
あの震災をまさに「経験した」方たちと、そうでない自分との隔たり。

宮城県の雄勝町で出会った、大切な人も家も失った男性が、こんな表現をしていました。
「いったん死んだんだと思う。もう前までに見ていた世界には、戻れないんです、二度と。
いま、もういちど、産道を通っているような気がするんです。
そこは暗くて細くて、ちゃんとまた生まれることができるかどうかもわからないけれど」
思わず立ちすくむような光景、そこにうずくまるいくつものかなしみ。
距離を縮めようとすればするほど、
胸の内を想像しようとすればするほど、
むだなんじゃないかという思いが強くなりました。

当時のことをいろいろと思い返します。
東京でも街の明かりが消え、「自粛」ということばのもとにイベントや番組が見送られ、
余震におびえながら、防災グッズを買い集めて・・・。あの日を境に、変わってしまった。
そう思っていたはずなのに。たった4年前のことなのに。
なんでこんなに遠くになっているんだろう。
いや、遠くなっているんじゃなくて、
「遠ざけようと」してしまっているとしたら。

確かに「距離」はあるんだと思います。
でも。私はその「距離」に甘えて、心の耳を閉ざしてしまってはいないだろうか。
想像することを諦めてしまっていないだろうか。
震災のあった時代の日本を生きた一人の人間として、
節目の今日、自問しています。

「距離」があっても、自分にできること。
それは「並走」することなのかな、と、今日、改めて感じています。

巨大で、渦巻くように複雑で、底知れない何かが、
あの震災で亡くなった方々と、被災した方々と、そうではない自分とを隔てているとしても、
その間隔を理解しながら、別々の列車たちが線路を並走するみたいに、
ときにどうしてるかな?と向こうの車窓の様子を伺って、
ときにどこかのプラットホームでことばを掛け合って、
交わらなくてもスピードは合わせて、ともに進む気持ちを持てたら。
かっこつけかもしれないけれど、
そんなふうに、心で心に寄り添えるひとりになれたら、
10年後、100年後が違うって、信じたいです。
そのために、想像をやめないで、耳を傾けることを続けたい。

今日は、きっとそうやって、
ひとりひとりが考える日。
3月11日。
東日本大震災から、4年が経ちました。

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