舞鶴を訪ねて
2026年03月29日

 「まいづる」という語感の美しさに惹かれ、ずっと行ってみたいと思っていた。3月22日の夜、遅い冬休みを取っていた僕は、地図を広げながら、京都府の日本海側に位置する舞鶴に行くことをふと思い立った。
 時間には限りがあった。というのも、翌々日には郷里の新潟に帰省して母に会い、夜には東京に戻って知人と会食をする約束があったからだ。

 時刻表のアプリを使って答えをひねり出した。翌朝、東海道新幹線で京都に出て、JRの在来線を使えば昼過ぎには舞鶴に着く。舞鶴で午後を過ごして夜までに福井県の敦賀に入ればそこで1泊。翌朝の北陸新幹線に乗り、群馬県の高崎で上越新幹線に乗り換えると午後には新潟に到着する。母に会った後、再び新幹線に乗り込み、夜の早い時間に東京に帰るという1泊2日の旅行日程。これなら可能だ。

 行ってみたかった舞鶴とはいえ、実際に訪ねようと思った理由には、実は「戦争」というふた文字があった。アメリカとイスラエルがイランに対して軍事攻撃を始めたのが2月28日のこと。トランプ大統領の思惑が外れたのか、イランは最高指導者・ハメネイ師を殺害された後も徹底抗戦の姿勢を崩さず、戦闘は長期化の様相を呈してきた。

 原油価格が高騰し、われわれ日本人の生活への影響も出始めている。だが、日本に住む身にとって、戦争の血なまぐささを直接感じることはない。それは、報道という仕事にある僕らも同じことだ。
 アメリカやイスラエルの戦略について掘り下げ、ホルムズ海峡を人質に取るイランの思惑にも迫りながら、僕らなりに懸命にニュースを伝えてきた。だが、戦闘によって多くの人が血を流し、死んでいくという現実のむごたらしさを、自分たちはどれほど肌身で感じながら伝えて来ただろうか。そう考えながら、脳裏に浮かんだのが、行ったことのない舞鶴の名だった。

 広島や長崎をはじめ、戦争の記憶を今にとどめるために設けられた施設は日本の各地にある。舞鶴のそれは、その名を「引揚記念館」という。舞鶴は、昭和の戦争の終結後、満州やシベリアなどの外地から引き揚げてきた人たちを受け入れた代表的な港のひとつだ。

 終戦間近の昭和20年(1945年)8月9日、当時のソ連が日ソ中立条約を破棄して満州などに侵攻した。舞鶴は、満州から逃れた人たちが海を渡ってかろうじて辿り着く、祖国の玄関口となった。また、ソ連の捕虜となり、シベリアなどで抑留された捕虜たちの苦難は長期にわたった。舞鶴でのこうした引揚者の受け入れは、実に昭和33年までの13年間に及んだ。舞鶴に帰還した引揚者の総数は66万人余りに上った。

 「引揚記念館」で苦難の歴史を物語る展示の数々を見、資料を読みながら、言葉を失った。ここには戦争のざらざらした肌触りが確かにあった。その悲惨さを知る一方で、引揚者を迎え入れた舞鶴の人たちの献身が身に染みた。厳しい食糧事情にあっても芋をふかして振舞うなど、ボロボロに疲弊した引揚者たちを懸命にもてなしたという。

 ひとしきり展示を見終えると、裏手にある丘を登った。あの頃、船が接岸し、引揚者が上陸した桟橋の跡地が見えた。ここにあの時の港の姿はない。引揚者の帰国事務などにあたった厚生省の舞鶴引揚援護局の建物も過去のものである。
 だが景観こそ変わっても、過去と現在が確かにつながっているのを感じた。当時、岸壁には息子の帰還を待つ母、夫を待つ妻の姿が多く見られ、「岸壁の母」という歌も作られた。その歌詞とメロディは僕も知っている。

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 東舞鶴の駅から、若狭湾沿いに敦賀までローカル線に乗った。翌日、予定どおり昼過ぎに新潟に着き、母のもとに向かった。舞鶴を訪ねた話をすると母は、「舞鶴のことは、あの当時、おばあちゃんから何度か聞いた」と語った。
 やはりそうかと思った。母がまだ小さかったころ、母の一家は新潟の田舎の貧しい暮らしから一念発起し、満州に渡ろうと試みた。そのことは以前に聞いていた。一家の長である母の祖父の急死により計画は頓挫したが、それでもひとり満州に渡り、当時の満鉄・満州鉄道の仕事に関わった若者がいた。それが母の叔父にあたる人で、彼は終戦とともに満州からの引揚者となった。母の記憶から類推すると、叔父の母、つまり母にとっての「おばあちゃん」は、息子の帰還を待ちながら、遠い舞鶴の港のことを気にかけていたのかもしれない。

 こうしてほんの少し親族の過去をたどるだけで、自分があの戦争と間接的につながっていることが分かる。そう考えると戦後の80年という時間は短い。
 80年前、日本は塗炭の苦しみの中にあった。東京をはじめ多くの都市が焼けつくされ、広島と長崎には原爆まで落とされ、軍部主導で一億玉砕を叫んでいた当時の日本政府はやっと降伏した。おびただしい犠牲を払いながら。

 徹底抗戦を唱えるイランの姿がそこに重なる。
 戦火を交えるどちらかの側が正しいとか、正しくないとか言うつもりはない。ただ、明らかに言えるのは、指導者たちが、体制転換だとかメンツだとか叫んでいる間に、生身の人間が血を流し、命を落とし、その分だけ悲劇を生んでいるという事実だ。
 「ディール」、つまり取引という計算高い用語を使いながら、あれこれと言を弄する超大国の指導者の頭には、犠牲者一人ひとりの苦悩はどれほど響いているだろう。彼の言う「ディール」が首尾よく進み、仮に秋の中間選挙に勝利したとして、そこに残るのは怨嗟と報復の連鎖でしかないだろうに。

 80年前の記憶を今につなぐ日本には、何かできることがあるはずだ。
 なるほど、今や何を押し付けてくるか分からない相手となった同盟国アメリカの圧力は、今のところかわすことに成功している。巧みな首脳外交の成果と言えばそうだろう。だがその先は?日本はアメリカとの同盟国であると当時に、イランとも長い国交を結ぶユニークな大国なのだ。
 日本にできることは何か。10日前にインタビューをした駐日イラン大使はこう言った。「それは日本次第です」。
 自国民の経済的ダメージを最小限に抑えるのは政府の当然の責務だ。だが、それだけでいいとは思わない。営々と積み重ねてきた国際秩序が崩壊の危機に立っている。道は簡単ではない。だが、指をくわえてやり過ごすだけでは済まない。

(2026年3月29日)

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