

「臓器の提供を待っている患者さんがいて、万一自分が脳死状態になったら提供してもいいという人がいる。そして臓器移植の確かな技術を持った医師がいる。だとすれば、他の誰がそれを阻むことができるというのか」。僕が記者になって3年が経った頃に聞いた、岡山大学医学部の教授の一言が、今も忘れられない。
教授は消化器外科が専門で、交通事故などで脳死状態となった人をドナー(提供者)とし、重症の肝臓病患者をレシピエント(移植を受ける人)とする肝臓移植手術を、アメリカで学び、経験を積んだ人だった。心臓や肝臓といった臓器の移植手術を成功させるためには、心臓死からでは臓器の「鮮度」が失われるため難しく、脳死段階での移植が求められるからだ。
しかし、日本では伝統的にも法的にも、心臓死をもって人の死としてきた。もしも、あの時教授が脳死となる前のドナーの提供意思が確認できていたとして手術に踏み切れば、それはいわばフライングであり、場合によっては殺人罪に問われる可能性もあった。その苦渋の思いが吐き出させたのが冒頭の一言だったのだ。
それから10年近くが経ち、国会では、脳死状態の人からの臓器移植を可能とするための法案が焦点となっていた。僕は岡山から東京に異動し、国会を取材していたが、この法案をめぐって初めての取材経験をした。ちょっとした驚きだった。
ほとんどの政党が、法案の採決に当たって「党議拘束」を外したのだ。つまり、党として法案への賛否を決め、各議員にそれに従った投票行動を求めるという普段のやり方をせず、例外的に各自の判断に任せる決断をしたのである。
なぜか。この法案はつまるところ、心臓死のみならず、脳死を人の死と認めるかどうかという、すぐれて個人の死生観に関わる問題だからだ。党としてではなく、ひとりの人間として採決に臨むべきだと、珍しくほとんどの政党の足並みが揃ったのだった。
そして1997年、脳死からの臓器移植を可能とする法案は賛成多数で可決、成立した。
この思い出話をつらつらと書いたのは、長く議論の俎上に乗ったままの「選択的夫婦別姓」の問題が、まさにこの「脳死を人の死と認めるかどうか」というテーマと、重なるものがあるからだ。政党として方針を決めるというより、個人の価値観に根差す問題であるという点で。
参議院選挙の公示に先立つ6月30日、スタジオに公職選挙法上の政党要件を満たす8つの政党に集まってもらった。そして、選挙戦の争点のひとつとして、僕はあえてこの「選択的夫婦別姓」を取り上げた。「あの臓器移植法のときのように、党議拘束を外し、議員個人の判断に委ねてみては?」という提案も含めて問いかけた。
ベテランである自民党の石破総裁や立憲民主党の野田代表は、饒舌に答えてくれた。
石破氏は「それ(党議拘束を外すこと)もひとつの考え方だと思っています」と言う。だが、言い回しは相変わらず慎重だ。「脳死は人の死かどうかというような、私あの時はそうじゃないという立場でしたが…それと同じくらいの意味なんだということになったときに、初めてそうなるんであって、そこに至るまでに我が党は、この後もっと濃密な議論をしていきたいと思っています」。
野田氏はこう答えた。「臓器移植法の時も、私あの時、本会議で提案をした方の立場だったので、よく覚えていますけれども、党議拘束を外すというのはひとつの選択肢だと思いますよね。ただ、その前に自民党の考え方も本当は示すべきだったんではないかと思います」。
臓器移植法をめぐって、石破さんと野田さんは反対の立場だったという事実は興味深かった。だが、選択的夫婦別姓をめぐって党議拘束を外すことについて「ひとつの選択肢」という言い方も一緒なら、「自民党がまずまとまらなければならない」という点でも、立場はともかく、まったく一緒だった。
このようにして選択的夫婦別姓は、実施の先送りが繰り返されてきた。自民党がまとまらないという理由で。国の法制審議会が導入を答申したのが1996年。それから30年近くが経とうというのに、政治は足踏みしたままである。
実は、こうした賛否が複雑に入り組む政治課題が、選挙期間中に一定の合意を見るとか、議論に進展を見せるという例はまずない。各党とも独自色を打ち出すのに懸命で、焦点の物価対策がそうであるように、他党との違いを強調しこそすれ、機微に触れる問題を取り上げて物議を醸すとか、党内不和を呼び起こすような真似は極力避ける。残念ながらそこは、党首とはいえ人間の性なのかもしれない。あくまで一般論だが。
本来、選択的夫婦別姓のような問題は、政情が安定した状態で議論を進めるのが好ましい。だが、長期にわたった安倍政権では、選択的夫婦別姓には基本的に反対だという人が政権中枢に多く、議論の進展には至らなかった。「個人的には」導入に賛成だという石破氏が総理総裁になってからは、今度はご承知のように少数与党に転落し、党内基盤を何とか維持することに四苦八苦。繊細な問題にまで立ち入る実力も気力もなかった。皮肉な巡りあわせである。
だが、僕はだからと言ってこの問題を放置していいとは思わない。30年来の宿題を放置した政治の責任は、夏休みの宿題をサボった子どもたちよりも、当然のことながら重いのだ。
だから、世の中がいかに物価高にあえいでいようとも、トランプ、プーチン、習近平という強権だんご3兄弟(失礼!)に世界がいかに翻ろうされようとも、そうした問題に加えて、僕はこの忘れられた宿題をしつこく取り上げていこうと思う。
それにしても世の中、参議院選挙である。マスコミが主に取り上げるテーマは、世論調査などで関心が高い問題、今でいえば物価高対策などが集中しがちだ。僕が言うのも自己矛盾かもしれないが、マスコミが取り上げるテーマに縛られず、かといってSNSにありがちな中毒性の強い情報に支配されることもなく、それぞれが独自の判断で投票に臨んでほしい。しかも、参議院選挙の場合は選挙区選挙と比例代表選挙の2票を投じることができるのであり、さらに言えば比例代表は個人名と政党名が選べる(それこそ選択制だ)。人柄で選ぶか、政策で選ぶか。いずれも可能だ。あるいは連立政権の形など、選挙後の政治の姿を自分なりに考えて自分の票を配分させるという手だってある。投票という行動にも、いくつもの判断のバリエーションがあり、良い知的訓練になったりもする。
さて、選挙当日、僕はまた特番「選挙ステーション」に登板する。起こりうるいろいろなケースを今から想定しなければ。いやあ、準備が大変だニャー。
(2025年7月7日)

