

先週末、親しくさせてもらっているNHK記者時代の先輩と半年ぶりに飲んだ。70代の半ばを過ぎた今も旺盛な好奇心と変わらぬ正義感。この人と会うたびに、僕は記者としての原点に返る思いがする。
この日の話題で最も盛り上がったのが消費税だった。物価高で多くの人が生活に苦しんでいる。そこで消費税減税を主張する政党が目立ってきた。前日には立憲民主党の野田佳彦代表が、参院選に向けた公約として、食料品の消費税率ゼロ%を盛り込むと表明した。
野田さんに一目置いているというわが先輩は、かつて経済部の記者だった人で、国の深刻な財政事情をよく知っている。それだけに、増え続ける社会保障費の安定財源としての消費税には手を付けてほしくないと言う。
「野田さんは、首相時代に社会保障と税の一体改革をやり遂げた人。財政規律を重視してほしい」とため息を吐いた。「右も左も消費税減税になってしまったら、選挙での選択肢がなくなってしまいますね」と僕は応じた。
タクシーで一緒に帰った。車中でも話は尽きず、消費税からトランプ大統領の破天荒ぶりへと話題は広がった。先輩を送り届けると、僕は同じタクシーでそのまま帰路につくことにした。すると、それまで黙々とハンドルを握っていたドライバーの男性が、よく通る声で語りかけてきた。
「ニュース番組にご出演の方ですね。声の質と、独特の語尾の閉じ方で気づきました」
こういうことはたまにある。「はい、そうです」と答えると、そのドライバー氏は、「やはりそうでしたか。実は私も、ちょっと人前に出る仕事をしていたものですから」と言う。「語尾の閉じ方」などという珍しい表現を使うところを見ると、テレビなどの業界の人であっても不思議はない。後ろ斜め45度の角度から、改めて運転席のドライバー氏を見ると、かなり年配ではあるが、髪は黒々と染められ、揃いすぎるほど毛先が揃っている。そして背筋はピンと伸びていた。
「人前に出る仕事とおっしゃいますと?」と聞こうとするより先に、ドライバー氏は話し始めた。「昔、春日八郎さんにずいぶんと可愛がってもらったものです」。
なんと春日八郎さん!僕くらいの年齢でも、やっと覚えているくらいの時代の人である。スマホで調べると、春日八郎さん(1924~1991)は、「赤いランプの終列車」、「お富さん」、「別れの一本杉」などで知られる大物演歌歌手だ。ふと「♪死んだはずだよ お富さん~」というメロディが僕の頭に浮かび、口ずさみそうになったが、本物の春日さんに可愛がってもらったという御仁に対し、失礼な気がして押し黙った。
「あの頃の歌手は、皆とにかく基礎を大事にしていました。歌うということの基礎をね」。ドライバー氏の話しぶりは、しっかりとした滑舌と、ゆったりとした抑揚が心地よい。僕のような「独特の語尾の閉じ方」といったクセがなく、心に素直に届く。演歌歌手として修行を積んだ人であることは間違いなさそうだ。
運転席から発せられるオーラにすっかり飲まれてしまった僕は、歌うことの基礎などほとんど知らないくせに、「なるほど、基礎ですね。細川たかしさんとか、いまでもすごい声量ですよね」などと調子を合わせた。するとドライバー氏は、「ふふ。彼ですか。たしかにそうですね」と不敵な笑いを浮かべるではないか。御年74歳の演歌の大御所を「彼」の一言で片づけるとは。
そしてドライバー氏はおもむろに言った。「私は、三橋美智也なんかと一緒に苦労したものです」。なんと!三橋美智也さん!しかも呼び捨て!こちらもまた、僕くらいの年齢層でかろうじて覚えているくらいの大物演歌歌手。美声が印象的だった。
「ちょっと待てよ」と思ってまたスマホで検索してみた。三橋さんは1930年生まれ。65歳で亡くなったが、存命なら御年94歳である。ドライバー氏は74歳の細川たかしさんを「彼」で片づけ、生誕94年の三橋美智也さんを呼び捨てするくらいの仲なのである。
「今でも頼まれればステージで歌うんですよ」とドライバー氏。つまり今も現役なのだ。優雅なたたずまいとよく通る声がそれを裏づけている。
こんな時、どうしたらいいのだろう。
「運転手さん、一曲披露してくださいよ」と軽い調子で頼むのは、生粋の舞台人に対して礼を失する行為に思え、とてもできない。一方で頭の中の疑問は膨らんでいく。演歌歌手であるこの人は、どうしてタクシーを運転しているのだろう。そもそもこの人は、いったい何歳なのだろう!
そんなふうにひとりで悶絶するうちに、家に着いてしまった。その素性を知ることも、美声を聞く機会も逃し、僕は支払いを終えると、後ろ髪を引かれる思いで車を降りようとした。
するとドライバー氏は僕を振り返り、「ありがとうございました。またのご乗車をお待ちしています」と声をかけてくれた。その時見えた顔は、なんというか、とてもハンサムだった。瞳はキラキラしていて、昔の少女漫画に出てくるヒロインの、お金持ちの友人のパパみたいだった。この人をテレビで見たことがあるように思えた。しかし、名前や曲までは思い出せない。そうこうするうちにタクシーは走り去った。
もどかしかった。春日八郎さんに可愛がられ、三橋美智也さんを呼び捨てにするほどの仲良しであり、細川たかしさんを「彼」の一言で片づける演歌歌手。これらの要素を打ち込んで検索すれば、あのドライバー氏を特定することはできるだろうか。いや、今どきのAIでもそれはかなわないだろう。
でも、ふたりの人生の先輩と触れ合ったこの日は、なんだか得をした気分だった。記者の先輩は、経済部の前は社会部に在籍し、昭和最大のスキャンダルである「ロッキード事件」の取材で大活躍した人である。一方の謎のドライバー氏は、厳しくもやんちゃな昭和の芸能界で、荒波に揉まれた人なのだろう。
このコラムを書きながら、ふと手元の新聞を見ると、「昭和100年」との見出しがあった。ことしは元号が大正から昭和に変わってから100年の節目であり、この日4月29日は「昭和の日」の祝日。もともとは昭和天皇の誕生日である。
昭和は遠くなりにけり。けれど昭和は今に生きている。
(昭和100年4月29日)

