散歩をしながら、たったひとつ残った栗の実を見上げると、その上に真っ青な空が広がっていた。どこまでも澄み切った空だ。この季節、うららかに青空が広がるお天気を、まるで春のようだという意味で「小春日和」と言う。
「こんな小春日和の~」と歌い出してしまう空だ。続いて「穏やかな日は~」と歌詞をそらんじることができる人は、間違いなく山口百恵さんに親しんだ昭和の人である。
先日の番組ミーティング。気象コーナーの打ち合わせで日本地図上のデータを見ながら、「これはいわゆる冬型の気圧配置というやつですね」と担当デスクに確認すると、彼女は「その通りです」とうなずいた。すると、この日の番組を仕切る山形出身の総合デスクが、「せめて12月まで待ってほしかったですね」と感想を漏らし、今度は新潟出身の僕が大きくうなずいた。
日本海側の出身者なら、「もうそんな季節か」と憂うつな気分になってしまうのが、この冬型の気圧配置だ。僕が育った新潟市の冬は、まず太陽を見ることがなかった。シベリアからの寒気が三国山脈のあたりにぶつかって雪雲を作るからだ。山口百恵さんの「秋桜(コスモス)」に歌われた「こんな小春日和の穏やかな日」というのは、残念ながら太平洋側に住む人たちの占有物に近い。
元横綱の北の富士勝昭さんが亡くなった。82歳だった。
おばあちゃん子だった僕は、小学生の頃、よく祖母と炬燵(こたつ)にあたってテレビの相撲中継を見たものだ。大相撲なら夏だってやっているのに、なぜか祖母とふたりの炬燵の時間だけが思い出される。北国の厳しい冬は、その分だけ心に染み入る情景を作り出す。
この頃活躍していたのが、横綱・北の富士だった。ライバル横綱の玉の海とともに「北玉時代」と呼ばれる黄金時代を築いた。2人は対戦成績も優勝回数も、ほぼ互角で争っていた。北の富士は、スピードと、上から押しつぶすような迫力ある右上手投げが武器だった。玉の海が現役のまま、腹膜炎で急死したときには大粒の涙を流していた。一方、引退後の断髪式で短髪となるや、一転白いタキシードで場内に現れ、ファンを沸かせた。
解説者時代の、茶目っ気にあふれた歯に衣着せぬ言いっぷりはご存じのとおりである。軽妙洒脱、誰からも愛される人だった。
初冬の昼下がり。小春日和でも日が落ちていくのは早い。鈍色(にびいろ)の空の新潟とはまた違った、少し物悲しくなるこの季節の夕暮れだ。
そしてこのところ、伝えるニュースは悩ましいものばかりだ。
アメリカ大統領選で国民が選んだのはトランプ前大統領だった。それ自体は民意として尊重されなければならない。だが、その後続々と発表される政権の主要人事はどうだ。自らに忠誠を誓うことが一番で、実績や人物評価は関係ないように見える。
国防長官には、トランプ氏のお気に入りである保守系メディアの司会者を充てるという。アメリカ在住で、たまたま在京だった僕の友人は、このニュースに嘆いていた。「彼には軍歴はあっても司令官としての経験などないし、資質は未知数だ。そのことを自分の友人でもある、当の軍人たちが嘆いている」と言う。
アメリカ第一主義ならぬトランプ第一主義が、超大国アメリカをどこに向かわせるのか。ウクライナにロシアが仕掛けた戦争や、イスラエルとハマスの戦争などの悲劇を、彼らが蛮勇をふるって解決に導くだろうと考えるのは、あまりに楽観的だ。せめて、政権の暴走を連邦議会の良識で止めてほしいと願うのが現実的なところか。
沈みゆく夕日を見ながら、こちらもまた沈んだ気持ちになっていく。
1週間前の兵庫県知事選挙の結果は、今も僕の心を落ち着かないままにさせている。県議会から不信任決議を突きつけられ、失職した斎藤元彦氏が圧勝で返り咲いた選挙である。
人々がSNSを通じて、候補者の個性や政策といった情報を「自ら探りに行く」という行動が定着したのならば、大いに歓迎すべきだと思う。ただその過程には、かなりの割合で、根拠不明な言説を弄するインフルエンサーが介在していたことが明らかになっており、こちらはかなり頭が痛い問題だ。
言論の自由の現場が荒れている。荒らす当事者の言動を法律で規制すべきか否か。言論の自由を自律的に謳歌することを捨て、法規制だけに頼るようになれば世も末だと僕は思う。
また、この問題をテレビや新聞など既存の「主流メディア」と、SNSユーザーとの対立と捉え、既存メディアの敗北だと論ずる識者の声もあった。これもまた極論だ。情報の発信の仕方、受信の仕方はハイブリッドであるべきで、その割合はあくまで個人の判断だ。
そういう僕は、既存メディアに多くを依存する方だ。インターネットという海の中で、突然イワシの大群が発生したように乱舞するSNSの流儀には、慣れることができない。新しい分野に理解の幅を広げる、その一歩がなかなか踏み出せないのもまた、還暦越えの僕の現実である。
もう日はとっぷりと暮れた。
横綱・北の富士の取り組みで思い出されるのが、気鋭の超人気力士、関脇・貴ノ花との一戦だ。北の富士に浴びせ倒されそうになった貴ノ花は、恐るべき足腰でうっちゃりを試みた。北の富士はたまらず右手を先に土俵についたが、審判員による長時間の協議の結果、北の富士の勝ちと判定された。貴ノ花はすでに「死に体」となっており、北の富士の右手は、危険を避けるための「かばい手」と判断されたのである。
昭和、平成、令和とそれぞれの時代に輝きを見せたスターの死去。少し遅れて同時代を生きてきた僕にとって、心の欠片(かけら)がひとつ剥がれ落ちるような寂しさを感じた。名勝負を演じた貴ノ花(のちに大関に昇進)は、もうずいぶん前に他界している。貴ノ花の息子たちは、父親が果たせなかった横綱昇進の夢を果たしたが、この兄弟も、もはや現役を引退して久しい。このうち、父のしこ名を継いだ次男はテレビCMで見ない日がない。とぼけたおじさんの味で「ふるさと納税」を歌っている。
ああ、時が流れるのはなぜこんなにも早いのか。
(2024年11月23日)