大越健介の報ステ後記

老いたとは言わせない
2024年05月21日

 大げさではあるが、わが家史上、初めてのことだった。
 東京郊外の建売住宅の片隅で、家庭菜園をはじめて30年。その一角はずっとゴーヤ(苦瓜)の定位置である。これまではずっとタネを直播きして育ててきた。ところが、今年は初めて苗を買ってきて植え替えた。ちょっとした事件だ。

01

 長くひいきにしてきた近所のホームセンターが、最近閉店してしまった。仕方なく隣町まで車で出向き、大型連休前に夏野菜用の一式(トマトやキュウリの苗など)を仕入れ、ことしもなんとか畑を作った。ところが、ゴーヤのタネを買うのを忘れていた。
 ひと月近くが経ち、トマトやキュウリが順調に育つ中、僕はゴーヤの一角が依然空白であることに焦っていた。そうだ、近くの「道の駅」でも野菜のタネを売っていたような覚えがあった。そこで散歩ついでに買ってこようと出かけたのだが…お目当てのタネはなく、売っていたのはゴーヤの苗の方だった。
 そして僕はあっけなく、いくつかの苗を購入し、帰宅して畑に植えた。

 しかし、それで良かったのだろうか。
 実は毎年、ゴーヤにはハラハラさせられてきた。春に種を植えても、この南国野菜は、関東の気候が気に食わないのか、なかなか芽を出してくれないのが常だった。地べたに這いつくばるように「おーい、出ておいで!」と呼びかけても応答はなかった。
 やっと芽を出しても本葉が順調に出てこなかったり、タネをまいた場所とは全く別のところからひょっこり芽が出てきたりする(おそらく収穫しそこねた前年の実から落ちたタネだろう)。結局ゴーヤは、梅雨が明けるころにはいくつも実をつけるのだが、僕にとってはとにかく気をもませる野菜だったのだ。

 買ってきたゴーヤの苗は、緑鮮やかでたくましく、きっと心配なく育つだろう。だが、何かが足りない。タネを買ってきて、芽が出るのか、ちゃんと育つのかとハラハラすることこそ、実は本当の楽しみだったのかもしれない。隣町まで出向いてタネを買うことをせず、最大の楽しみをあっけなくすっ飛ばしてしまった自分について考えた。
 ひょっとすると、これは「老い」のなせる業なのか。年齢を重ねると、面倒くさいものを端折りたくなる。途中に手間をかけることが億劫になり、近道を選びたくなるかもしれない。

 僕はいま62歳である。まだ「老い」を語るのは時期尚早と言える。しかし、それは着実に自分の中に沁み込んできている。ちなみに、父は63歳になったばかりであの世に行った。自分はその年齢をまもなく超える。そう考えると、人生はいつか終わるのだということが、妙に具体的にイメージできてしまう。

 毎日のニュースに接する中で、ちょっと自分の理解を越えているなあという内容が増えてきた。理解をしようと手間ひまかけるのを諦めてしまうようなニュースである。
 生成AIが驚くべきスピードで進歩を遂げている。番組ではオープンAI社が発表した新しい言語モデル「GPT-4o」を紹介した。音声で話しかけると、この優れモノはほぼリアルタイムで会話を返してくる。利用者の感情なども理解した上で、機械がまるで人間のような答えを返してくる。明快に答えることもあれば、ためらったり、恥じらってみせたりもする。
文字だけのこれまでのモデルでも十分驚きだったのに、今回はさすがにアゴが外れそうになった。

 番組終了後の反省会で、僕は「我々はもう、否応なくデジタルの世界に組み入れられている。デジタルが苦手とか、AIは嫌いだとか言ってはいられない。正面から向き合わなければなりませんね」などと殊勝なことを言った。
 だが、本音はAIが支配する世界がすぐそこまで来ているようで怖い。怖いならしっかり理解して対応を考えなければならないのだが、もうお手上げという気持ちになっている。次の世代にそのことは任せて、もう逃げてしまおうか…。

 こちらの出来事もそうした一種である。政治団体「つばさの党」の幹部3人が逮捕された。衆院東京15区の補選で、他陣営の街頭演説を妨害した公選法違反の疑いである。
 明らかな妨害行為だった。他党の候補者の選挙カーを執拗に追い掛け回す。遊説中は候補者などに対する罵詈雑言を間近でがなり立てる。それを彼らは「表現の自由の中で適法なことをやっている」と主張した。

 表現の自由、言論の自由とは何ぞや。それは相手の言論を尊重することでもある。それを抜きにした自由とはただのやりたい放題であり、やりたい放題を続ければ自由の自殺行為となる。
 その大切な理念は、長いこと自由と民主主義の国で育ってきた日本人は、当然身に染みて知っているはずだと信じている。しかし、かなりの数の人たちが「つばさの党」の行動を面白がる。動画サイトは繰り返し再生され、結果的に彼らの懐にカネが落ちるという。
 分からない。民主政治がうまく機能していないことへのストレスのはけ口なのか。老境の入り口にある僕には、それ以上理解しようとしても難しく、勝手にどうぞと投げ出したい気持ちになる。

 だが、投げ出してはならないのだろう。
 先日、神宮球場に東京6大学リーグの試合を見に行ったとき、かつてお世話になった野球部の先輩にばったり会った。もう70歳を超えたはずなのに、お世辞抜きに50歳くらいにしか見えないその若さに驚いた。「僕ももう還暦をとっくに過ぎましたよ」と言うと、「今は少なくとも、昔よりマイナス10歳で考えなきゃ。ははは」とさわやかに言われた。なるほど、つまり僕もせめて50歳と少しくらいのつもりで第一線を走らなければならないのだ。

 ため息交じりにこうして自分の思考の現在地を確認し、コラムとして書き記す。これもまた、今という時代にかろうじて踏ん張ろうとする試みだと思いながら、パソコンのキーボードに向かっている。

 (2024年5月21日)

 お知らせです。このホームページに書き連ねてきたこれまでのコラムが、小学館から一冊の本になりました。「ニュースのあとがき」という本です。知り合いには、「眠れない夜にどうぞ。読み出したらきっと眠くなります」と言いながらお薦めしています。

02

 コタローが寝ていたので、枕代わりにとそっと置いてみたら、なかなか枕にしてくれません。ひょっとしたら、「面白い本だから、枕になんかできニャイよ」とでも思っているかもしれません。皆様にお手に取っていただければ幸いです。

 大越健介

  • mixiチェック

2024年5月
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031