大越健介の報ステ後記

「わんしょ」からのエール
2024年02月04日

 僕は寺泊という、父母のふるさとである新潟県の小さな港町で生まれ、ごく幼い頃を過ごした。その後も寺泊を訪れるたびに、父方の実家が「わんしょ」という屋号で呼ばれているのを聞き、なぜだろうとずっと思ってきた。
 もう20年ほども前のことだろうか、亡父の法事で寺泊を訪ねたときのこと。代々お世話になっている寺の住職がこんなことを教えてくれた。
 「あなたたちの祖先は、もともと能登半島から逃れてきた人たちです」。
 初めて聞く話だった。住職によるとこういうことらしい。

 戦国時代、一向一揆が織田信長によって滅ぼされたときのこと。能登の輪島の近辺にいた一向宗(浄土真宗)の信者たちは追い詰められていた。そこで、ある僧侶に率いられた何人かが一艘の小舟で海に逃れた。漂着した先が寺泊であり、一同はそこで定住したのだという。

 その説明をしてくれた住職は、輪島の住民を率いた僧侶の、そして僕はその船に乗り込んだ信者の末裔ということになる。そして、「わんしょ」という屋号の由来は、わが先祖が輪島塗の職人であったことを意味するという。輪島塗がほどこされた美しいお椀。だから屋号は「椀所(わんしょ)」なのだと。

 なにせ400年以上前のことであり、文書が残されているとも聞かない。だからその信ぴょう性は不明だが、それ以来、僕は輪島という町、さらには能登半島に勝手に愛着を感じるようになっていた。

 能登半島地震から1か月が過ぎた。日本海に突き出た半島を襲った最大震度7の地震は、多くの家屋を倒壊させ、人々の命を奪った。津波は、竜の首のような形をした半島の、内海の側に回り込み、複数回にわたって押し寄せた。
 一方、外海の側は海岸線が隆起して地形を変えてしまった。輪島港をはじめ、多くの港が陸の荒れ地と化した。液状化もまた深刻で、これは遠く新潟市などにも及んだ。
 地震発生から1か月の時点で、石川県内の死者は240人に上っている。

 1か月が経っても、テレビでは被災地の自治体で行われている支援物資の配布情報が流れている。その物資とは依然、食料や水、簡易トイレなどが多い。求められている物資の種類が、発災直後とほぼ変わっていないことに驚く。
 それはつまり、被災地ではいまもそれだけ多くの人たちが、近くの公民館や体育館などにとどまり、または車中泊を続けながら、何とか急場をしのぐ生活を続けていることを意味している。あるいは、安心して住める場所に移ることができずにいるということだ。

 これからどう住まいを確保していくか。必死に命をつなぎ、最初の危機を乗り越えた人たちが次に直面する、最大の課題のひとつだ。
 番組では、輪島市の名舟町というところで被災したある男性を取材した。一時避難所から、約140キロ離れた野々市市の賃貸住宅へと移ってきた。県が用意した「みなし仮設」と言われる住居であり、ひと息つける場所ではある。だが男性の表情は晴れない。
 彼は輪島塗の職人だ。移ってきたこの住まいで日々抱くのは、やはり違和感である。賃貸住宅の、ごく一般的な柱を見て、男性はこんなふうに言った。
 「真っ白やろう。うちらの柱は漆塗り。能登の方は、ほとんどの柱が漆塗りで、色がまず違う。慣れんね」。
 同じ石川県とはいえ、土地柄は全く違う。
 「名舟町と言ったらもう、目の前、窓開けたら真下が海だから。小さい時から波の音で育ったから。今は、便利は便利やなと思うけど、長くはいたくない」。

 阪神淡路大震災や、東日本大震災などを振り返ると、仮設住宅はたくさんの人たちの危機を救った。だが、元々の住まいから遠く離れたり、従来のコミュニティが分断されて、一から近所づきあいを始めるなどの苦労を伴うケースも目立った。
 さらにその先、仮設暮らしの間に住宅再建がままならない被災者の中には、新しい災害公営住宅に移る人も多かったが、疲労の果てに家に引きこもり、孤独死する事例なども頻発した。阪神淡路大震災以降、被災者の支援にあたってきた男性が、整然とした公営住宅を見ながら、「コンクリートの向こうに無数の孤独があるんです」と語ったことが忘れられない。

 そうした悲劇を繰り返さないために、被災地の自治体や国は、被災した人たちの負荷を最小限にするための対策が求められている。しかし、山がちの半島にあって、狭い平地に密集した住宅などが被災した今回の地震は、地域に十分な数の仮設住宅を設けることが難しく、県外への避難なども避けられないと見込まれている。状況は今回も極めて厳しい。

 とはいえ、この1か月、被災地としての能登を伝えて来た中で、希望を感じる場面も少なくない。
 2日の金曜日、徳永キャスターが七尾市の能登島を取材したリポートを放送した。島であるというハンディキャップは大きく、支援はなかなか届かないのが現状だが、一部再開した定置網漁の現場は、若い漁師たちの活気が溢れていた。この日は豊漁とはいかなかったそうだが、それでもマグロやタイなどの高級魚が次々と揚がっていた。
 そう、能登半島の複雑な地形は、日本でも有数の宝の海を作り出しているのだ。

 野々市市の「みなし仮設」に身を寄せた輪島塗職人の男性は、「戻る覚悟でやっている」と言い切った。輪島塗という伝統工芸は、多少の傷がついたとしても、上塗りによって再生できるのが特徴だ。
 「輪島塗の修理は、これからいろんなものが出てくるだろうし、その時に修理する人がいないというわけにいかないから」。

 過疎化、高齢化が進む能登地域の復旧・復興にはいくつもの難しい課題がある。
 戦国の一向一揆の時代を含め、この地域の人々はその都度、時代の荒波を乗り越えてきたはずだ。奥深いこの地域が培ってきた、豊かな人材が持つ底力を信じたい。

(2024年2月4日)

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