大越健介の報ステ後記

ことり、と一句
2023年10月02日

 高齢となった母だが、ありがたいことに、ふるさとの新潟で、毎日元気に暮らしている。いつだったかその母が、いかにも残念というふうに、僕に話したことがある。
 「子どものころ、『健ちゃん、ピアノやらない?』って誘ったのに、あんたったら『オレは絶対イヤだ』って言うんだもの。ひとりくらいピアノをやってほしかったわ」。

 いまは筋金入りのおっさんである僕も、母からすれば「健ちゃん」である。
 わが家は僕を真ん中に、男ばかりの3人きょうだいだ。僕が育った昭和のころは(今ではそんなことないはずだが)、ピアノをはじめ、音楽を習うのは女子の専売特許で、活発な男子はスポーツに打ち込む、という固定観念のようなものがあった。少なくとも僕の郷里では。
 実際、学校の合唱コンクールでは、どのクラスも例外なく、ピアノ伴奏を担当していたのは女子だった。

 戦後の貧しい時代に育った母には、ピアノへの憧れがあったのかもしれない。あるいはピアノがあるような家庭への。
 ひょっとすると母は、長男(兄)が生まれたときには考えなかったものの、次に生まれたのも男の子とあって、少し焦りが出てきたのかもしれない。健介と名付けたこの男の子は、名前の通り健やかで元気いっぱいに育ち、普通にいけばスポーツの道に進みそうだ。うーん、それでも・・・。幼いうちからピアノを習わせるとすれば、この子がラストチャンスかもしれない。
 そこで、冒頭のやり取りだ。「ピアノやらない?」、「絶対イヤだ」。母は相当がっかりしたのだろう。
 
 実は、僕にはその記憶はない。母の願望がどのようなものだったのかも、ただ空想で書いてみただけである。僕より6年遅れて生まれてきた弟にも、母は同じ期待を抱いた可能性はあるが、真相は分からない。
 そして結果として、わが3兄弟の誰もピアノに触れることはなかった。美しいクラシックの旋律が流れる家庭とはいかず、暴れん坊たちによって家の障子は必ずどこかが派手に破け、時には窓ガラスまで割れるような、騒がしい家庭だった。

 そんな母の、たおやかな心の琴線に、ほんの少しだけ触れるようになったのは、ごく最近のことである。
 公務員だった母は、県庁を定年まで勤めあげた。伴侶である父を亡くしたが、人生のセカンド・ステージでいろいろな趣味を持った。毎週のように山に登り、フラダンスだってやった。その中で、今も続く数少ない趣味が、俳句である。

 自販機の ジュースことりと 日脚伸ぶ

 母が教えてくれたお気に入りの自作の一句だ。調べてみると、「日脚(ひあし)伸ぶ」というのは、年が明けて徐々に日が長くなっていく様子を意味し、冬の季語とされている。しかし、この句は、僕には初夏の光景としか思えない。

 ジュースを買ったのは母である。暑くなり、高齢の身には厳しい季節がやって来た。それでも健康のために散歩を続ける母にとって、途中で見かけた自販機はありがたい。百いくらかの硬貨を入れてお目当てのボタンを押す。取り出し口に「ことり」と落ちてきた冷たいジュース。日陰のベンチに涼みながら口に含み、「こくん」と喉を鳴らす姿が浮かぶ。
 わざと季語を取り違えるようにして、母は五七五の世界で遊んでみたのかもしれない。

 つい先日、母と電話で話をしたときのこと。母は、ある同人誌に寄せた一句が秀作に選ばれ、掲載されたと喜んでいた。どんな句?と聞いてみると、はにかみながら教えてくれた。

 若葉風 おずおずマスク とってみる

 こちらも季節は初夏である。新型コロナは山を越え、行動制限がなくなったとはいえ、とりわけ高齢者にはこわい感染症だ。でも外で若葉の風に吹かれているときくらい、まあいいかと、おずおずマスクをとってみるのだ。飾り気のない、良い句だと思う。

 母は10月のはじめで満90歳である。
 「もう90だよ、健ちゃん」とこぼす。相変わらず「健ちゃん」だ。
 歳をとるのだけは仕方ないね、という毎度のやりとりだ。その中でも、母の俳句についてあれこれ感想を言ったりする楽しみが増えたのは、なんと幸せなことだろう。

 母と息子の間柄。堅いことは抜きということで、母の句をこのコラムに掲載するのは事後承諾にしようと思う。
 次に電話するときには、「ごめん、勝手に借用したよ」と断りを入れることにする。そして、僕にピアノを勧めた理由も聞いてみよう。
 ついでに言えば、今は毎日の報道の仕事で忙しいけれど、いずれ、僕も俳句の勉強をしてみたいと伝えよう。ピアノを弾くことはかなわなかったけれど、母が大事にしているもののひとつくらい、離れて暮らすこの次男坊が、受け継ぎたいと思っていることを。

(2023年10月2日)

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