闘病する息子を囲んだ家族写真。そこに映った父親の顔を見て、「ひょっとして」と思った。
息子さんの名前は横田慎太郎さんという。鹿児島実業の野球部を経て、2013年、高卒で阪神タイガースからドラフト2位指名を受け、入団。3年目には開幕スタメンを勝ち取るなど、将来を嘱望された外野手だった。しかし、脳腫瘍におかされて選手生命を絶たれ、闘病の末、7月18日に帰らぬ人となった。28歳の若さだった。
少し状況を説明しなければならない。
報道ステーションはその日、慎太郎さんの追悼特集を放送した。引退試合での「奇跡のバックホーム」。命を削りながらの講演活動の数々。短くとも光輝いたその人生はしっかりと記録されなければならない。そんな思いが、彼を取材してきたディレクターを突き動かし、母親のまなみさんがインタビューに応じてくれた。
僕はその特集を、番組本番のさなか、スタジオの一角に置かれたモニター画面で見たのだった。本番中であることも忘れて画面に見入っていた。その中で紹介された家族写真に、僕の目は止まった。病が進み、苦しい状況の中、その写真には強い絆で結ばれた家族の姿があった。そして、僕はその父親の顔を知っていると、その時に気づいたのだ。
よこた・・・。 そうだ、短期間ではあったが、父親と僕はチームメイトだった。
その父親とは、駒澤大学で強打の外野手として鳴らし、卒業後はプロ野球ロッテでも活躍した横田真之君だ。横田君と僕は、昭和58年、大学の日本代表メンバーで一緒だった。その中でも主力選手だった横田君に対し、ベンチを温め続けた僕からすれば、チームメイトと呼ぶには少し気が引けるのだが、お互い大学3年だった横田君と僕は、1か月以上にわたって、神宮球場に近い宿で共に合宿生活を送ったのだった。
そうだったのか。亡くなった横田慎太郎さんは、あの横田君の息子さんだったのか。横田君とはその時以来交流が途絶えていたとはいえ、僕は気づくのが遅すぎたと、我が身の不明を恥じた。
横田君の長男、慎太郎さんに脳腫瘍が見つかったのは、慎太郎さんがプロ4年目を迎えた2017年の春のキャンプだった。「打球が見えにくくて、目に黒いラインが入った感じがした」のがきっかけだった。18時間もの手術、半年間の闘病生活を経てグラウンドに戻ったが、目に後遺症が残り、打球をうまく追うことができない。そして、選手生活に別れを告げる決心をし、2軍の公式戦が引退試合となった。
8回、守備位置のセンターにつくと、相手のヒットが飛んできた。セカンドランナーが猛然とホームに突っ込む。生前の慎太郎さんいわく、「誰かに背中を押されたかのように」前進してキャッチすると、本塁に全力で送球した。ノーバウンドの、完璧なストライク送球。判定はタッチアウトだった。
野球の神様が最後にプレゼントしてくれたような「奇跡のバックホーム」は、その後の語り草となった。
番組の特集では、母親のまなみさんへのインタビューを中心に、慎太郎さんの引退後の活動にも焦点を当てた。腫瘍は脊椎に転移。これを克服したかと思えば今度は脳腫瘍が再発。困難は幾重にも降りかかった。
それでも慎太郎さんは、同じような病に苦しむ人たちを思い、「元気を与えたい。前向きに闘っていくための力になりたい。それは僕の義務だと思いました。僕がやらなければならないのはこれなんだ」(著書「奇跡のバックホーム」より)と覚悟を決め、全国を講演して回った。腫瘍の影響で右目が失明してもなお、意欲的に活動した。
付き添い続けた母親のまなみさんは、「講演に行った先で、体力的に大変だったと思うんですけれども、(終えて)帰るときにはかえって元気をもらっていたんですね」と振り返る。「うまい言葉ではなかったんですけど、考えながらゆっくりと実話を話していったことが、多くの方に勇気と希望を与えていたんだなと、改めて思いました」。
引退試合での「奇跡のバックホーム」のように、慎太郎さんの真摯な言葉は、聞く人の心にストレートに刺さり、それはある種の熱を帯びて、講演をする側の慎太郎さんのもとに返ってきたのかもしれない。野球から講演へと舞台を変えて、慎太郎さんは聴衆と心のキャッチボールを続けていたのだと思う。
まなみさんによると、父親は愛息の最期にあたり、男泣きに泣いたという。慎太郎、慎太郎と、大きな声で呼びながら。
日本代表として、共に合宿生活をしていたころ、横田君は寡黙で、生真面目な男だった。厳しい練習で知られた駒澤大学野球部の気風は、横田君のような男には合っていたのかもしれない。合宿中も、夜、畳の部屋で懸命に素振りを続けていた姿を思い出す。
父親による、野球を通じた厳しくも優しいしつけのせいか、慎太郎さんは、どんなときにも「ありがとう」という感謝の言葉を忘れない青年だったと、まなみさんは語る。慎太郎さんが所属する阪神の監督だった金本知憲さんは、「がむしゃらな全力疾走、本当に歯を食いしばっている姿」が真っ先に思い浮かぶと言う。そして、「ベンチにいても、ロッカーにいても、常に誰かにいじられているような、本当にみんなから愛される性格でした」と振り返った。
横田君にとって、慎太郎さんはきっと自慢の息子だっただろう。プロ選手となった自分の後を追い、野球の道を進んだ息子の将来を、どれほど楽しみにしていただろう。
胸を揺さぶられる思いでVTRを見つめていた僕は、同じく息子を持つ父親として、横田君の心の内を思った瞬間、涙が込み上げた。あふれる一歩手前でかろうじてこらえた。
人生とは、どれだけ生きたかではなく、どう生きたかだ。
そんな言葉が頭に浮かんだ。だが、慎太郎さんの不屈の生き方と、支える家族のきずなの前に、月並みな言葉は無力だと感じた。
VTRが終わり、スタジオに画面が切り替わったが、僕は、「謹んでお悔やみ申し上げます」という言葉を発する以外、なすすべがなかった。
(2023年7月23日)