大越健介の報ステ後記

「論理の飛躍」に気をつけろ
2023年07月10日
2022年7月8日 報道ステーション

2022年7月8日 報道ステーション

 「つい昨日のことのようだ」とか、「もうずいぶん昔のことだ」などと、人は記憶のありかを表現する。でもこの事件だけは、そのどちらでもないような気がしている。
 安倍晋三元首相が銃撃によって亡くなった事件から、8日でちょうど1年が過ぎた。

 金曜日のことだった。僕はまだそのころ、月曜から木曜までの報道ステーションが守備範囲であり、金曜はフリーだった。だが、「安倍氏・凶弾に倒れる」の一報にすぐテレビ朝日に駆け付け、4時間にわたる緊急特番に臨んだ。そのときのことは、もちろんよく覚えている。だが、あれだけの生々しい事件なのに、僕は正直、「つい昨日のことのようだ」という気持ちにならない。

 事件の後、あまりにもいろいろなことがあったからだろうか。
 最たるものは旧統一教会の問題が改めて明るみに出たことだろう。山上徹也被告の動機をめぐる供述などから、旧統一教会の闇が再び暴かれた。
 自民党を中心とするかなりの議員が、教団をいわゆる「集票マシーン」として使っていた実態が明るみに出たことは、閣僚のクビが飛んだだけでなく、票になれば何でもありといわんばかりの悪食ぶりに、反省を促すこととなった。
 わずか1年の間だが、「つい昨日のことのようだ」などと思えないほどさまざまな問題が惹起された。

 一方で、事件自体を、「もうずいぶん昔のことだ」とも思えない。なぜなら、まだすべてが宙に浮いたままだからだ。

 旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁が先月末、「岸田(首相)をここに呼びつけ、教育を受けさせなさい」などと述べたという音声が、メディアに出回った。反省のかけらも感じられない。
 信教の自由という名のもと、信者を洗脳し、寄付をかき集めるやり方にはもう歯止めをかけなければならない。教団の解散命令請求を視野に入れた文部科学省の調査は、まだ途上である。

 また、政治の世界も、本質的なところは変わっていない。
 旧統一教会との関係について、自民党は「教団や関連団体とは一切関係を持たない」と宣言したが、春の統一地方選挙では、地方議員と教団との根深い関係が指摘されるケースがあった。「関係を持たない」とする約束をどう担保していくのかは明らかでない。
 宙ぶらりんのままなのは、旧統一教会に絡む問題だけではない。政治そのものも、いまだ「安倍時代」の形が残る。安倍氏亡き後も、引き続き「安倍派」を名乗らなければ結束が覚束ない最大派閥は、その象徴的な存在と言える。

 そして、あの事件が僕の心の中で置き場所が定まらない、もうひとつの理由がある。それは、旧統一教会への恨みが、安倍元首相への殺害へと一気に転化したことへの強烈な違和感だ。違和感にとどまらず、そこには危険な「論理の飛躍」を感じる。

 山上徹也被告からすれば、教団に報復する上で、襲撃はある意味、論理的かつ運命的だったのかもしれない。安倍氏は旧統一教会と政界との関係をつないできたとされる人物であり、しかもその知名度と実力は十分すぎるほどだ。旧統一教会の宗教二世として悲惨な生活を強いられた被告にとって、教団の「悪」を最も効果的に世に知らしめるタイミングが、偶然にも訪れた。急な遊説計画の決定で、被告の住む地域に安倍氏がやって来たのだ。しかもかなり警備が手薄な状況で。

 山上被告の宗教二世としての生い立ちには同情する。旧統一教会の教義を信じることで救われた人もいるのかもしれないが、もたらした悲劇は莫大だ。そうした集団が、長い間、日本社会に影響を与え続けた事実は、政治や、われわれマスコミの自省をこめて、厳しく受け止めなければならない。

 だが、同情を越えて、ネット上などで、山上被告をあたかもヒーロー扱いする声があるのは危険だ。山上被告の「論理の飛躍」は、決して受け入れられない性質のものなのだ。
 そこに気づかずに、あるいは気づいていながら「この際、それは仕方ない」とでも言うように、被告の行動に免罪符を与えてしまってはならない。そうした風潮がある種の市民権を得れば、政治家など実力者へのテロが横行した、戦前の不穏な時代へと重なっていく。

 安易に闇バイトに応募した若者が、強盗などの凶悪犯罪に手を染めてしまう、そんな時代だ。温暖化した地球は悲鳴を上げ、梅雨末期ともなれば、「今まで経験したことがない」豪雨災害が、あちこちで頻発する。そしてAIは人間の仕事を奪う。
 さまざまな不安やストレスが社会を覆い、人心は疲弊している。「山上被告の犯行は社会のせいだ」などと言うつもりは毛頭ないが、あの事件は、そうした不安な社会を形作るピースのひとつとして、すでにはまり込んでしまっている。

 あの事件を、過去のこととして片付けられない理由はそこにあるようだ。
 「つい昨日のこと」でも、「もうずいぶん昔のこと」であっても、それは感じ方の差こそあれ、過去の記憶である。ところが、この事件は、記憶の範疇からはみ出し、なお現在進行形の要素を多分に含んでいるのだ。

 だからこそ、手をこまねいているわけにはいかない。あのような事件を二度と起こしてはならない。そのためには、いま起きている事象に正面から向き合い、正しいことを正しいと言い、間違っていることは間違っていると言うことが大事だ。その両方が混じり合っているケースは、多角的にものごとを見ることが必要だ。
 当たり前のことだ。だが、これまで以上に、その当たり前のことが大事な時代になっている。

(2023年7月10日)

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