大越健介の報ステ後記

物語はここから始まる
2023年02月11日

 1週間にわたったウクライナへの取材の旅が終わった。数えきれないほどの気づきがあった。
 西部の街・リビウから首都キーウに向かう列車の中で出会ったのは、立派な顎ひげを蓄えた男性。彼は僕たちと同じジャーナリズムに携わる人だった。軍事問題などを扱っていたと言う。今は兵士として戦争に従軍しており、3日間の休暇を許されて、恋人とともにつかの間の旅行の最中だった。
 「戦場を体験したあなたの、ジャーナリストとしてのこれからの仕事に期待しています」と僕は言った。しかし、その問いは彼の心に響かなかった。彼の答えははっきりしていた。
 「私はもう、ジャーナリストではありません。ひとりの兵士です」。
 その上で彼は続けた。
 「ジャーナリストは危険だと思えば引き返すことができる。しかし、兵士はできない。戦うしかないのです。それが私の今の任務です」。
 旅の最初からパンチを食らった気分だった。ハッとさせられるこのような言葉に、何回、遭遇しただろう。
 夫を戦地に送り出し、励ましのメッセージを送り続ける幼な子の母親。戦地での兵士の遺品をひたすら収集し、「事実」を後世に残すことに心血を注ぐ博物館の学芸員・・・。

 5日間ぶっ続けで、ウクライナの人々の肉声を伝えた。朝から晩まで取材をし、その合間にコメントを準備し、中継カメラに向かう日々だった。
 最終日の金曜日は、ロシア軍の総攻撃で、首都キーウにも絶え間なく空襲警報が鳴り響き、避難場所であるホテルの地下室を拠点にして作業を続けた。警報解除とともに取材に出て、その場で放送を出すという綱渡りだった。

 一連のオペレーションを終え、キーウから鉄路、隣国ポーランドの首都ワルシャワに向かう。戦争のため飛行機は運航しておらず、15時間の列車の旅だ。ワルシャワからようやく飛行機を乗り継ぎ、帰国の途につくことができる。
 ワルシャワ行きの列車は、一等寝台を予約できた。狭いコンパートメントで、心ばかりの打ち上げができるかもしれないと、少し遠慮気味にアルコールを手荷物にし、同僚スタッフとともに列車に乗り込んだ。
 往路、キーウに入ったときも感じたのだが、ウクライナの鉄道は、戦地にもかかわらず、極めて時間に正確である。電光掲示されたキーウ中央駅の時刻表には、東部ハルキウなど、いまも爆撃が続く都市への列車の発着時刻が、平然と掲示されていた。
①

②

 ところが、旅とは一筋縄ではいかないものだ。
 列車に乗り込み、指定された自分の寝台を探すと、個室ではあるものの、狭い3段ベッドの中段が僕の居場所だった。一等寝台という甘い言葉はどうやら勘違いの元らしく、寝台の幅は1メートルもない。
 1段目の寝台(兼座席)では、若い男女が熱く額を寄せ、語り合っていた。そこに突然現れたアジア人のおじさんを見て、気の毒なことにカップルは、当惑の表情を浮かべた。
 邪魔をしてはいけないと通路に出て時間をつぶしていたら、列車の出発間際に男性の方が列車から降りた。ホームで彼女と見つめ合い、別れを惜しんでいた。ウクライナの列車は厳冬仕様で二重窓。しかも、万一、爆撃されたときにガラスが飛散しないように厚いテープが貼られている。
 だからふたりの声は通じない。カップルは互いにスマホを手に、窓越しに別れを惜しんでいた。涙ながらの会話は、列車が出発してからもしばし続いた。

 そういえば、見渡す限り、この列車は女性ばかりである。ウクライナの60歳以下の男性は、兵役に備えて国内に留まらなければならない。このカップルもそういう事情を抱えていたのだろうか。彼女は避難先のポーランドに向かう。彼はウクライナに残るということなのか。日付をまたいで走るこの寝台列車は、まさにシンデレラ・エクスプレスなのだ。

 しかし、そこから、はてと困ってしまった。個室の狭い3段ベッドは一番下が彼女、中段が僕、最上段(これがまた狭い!)が僕のO君という同僚(これまたおじさん!)が座席指定されていた。この状態で15時間の旅というのは、さすがに彼女も気まずいのではないか。
 思案していると、同じ列車に乗るもう一人の別の同僚(I君)が、困った表情で通路に出てきた。I君は、同じようなコンパートメントで、若い女性のふたり連れの中にポツンとひとりきりとのこと。これもさぞ辛かろう。
 そこでわが同部屋(?)の彼女にO君が提案をした。別室にいる僕たちの同僚I君と寝台を交換しませんかと。恋人との別れを惜しんでいた彼女だが、即座に「イエス!」と答えた。乗務員にも了解をもらい、座席を交換した。彼女もほっとした様子だった。
 かくして、僕たちアジアのおじさん3人は、狭いコンパートメントで一緒に夜を過ごすことになった。肩を寄せ合いながら、ほんの少しだけ、ささやかな乾杯をしたのだった。

③

 狭い寝台に寝転がり、このコラムを書いているうちに、いつしか僕も眠りに落ちていた。気がつくとパスポート・チェックである。列車は国境を越え、ポーランドに入った。戦地での取材は、これでとりあえずのピリオドを打った。

 だが、ウクライナの戦争はピリオドが見えない。
 キーウでの取材で大車輪の活躍をしてくれたウクライナ人コーディネーターのV君はこう言っていた。
 「戦地の兵士も、外国メディアに正しい報道をしてもらう仕事をしている僕も、皆さんが滞在するホテルで働いている従業員も、皆それぞれのやり方で戦っているのです」。
 今回の取材の最終日、「戦時下でも列車が時刻通り走るのはすごいね」とB君に問いかけた。彼は、「よくぞ言ってくれた」とばかり、ウクライナ人の几帳面さを饒舌に語った。
 僕の手もとには古いけどすてきなノートがあった。今はもう大人になった息子が高校時代に購入したものだが、使われることなく、僕の取材ノートとして今回の旅に同行した。このノートはちょっとおしゃれで、各ページに日本の新幹線と富士山のイラストが入っている。

 「使いかけで申し訳ないけど・・・」と、自分が文字を書きなぐった分は切り取って、B君にノートを渡した。「僕からのプレゼント。日本の鉄道も、ウクライナに負けずに正確で几帳面だよ」と言いながら。B君は笑顔になり、親指を立てて見せた。そして僕たちは別れた。

 また彼とウクライナを取材に回りたい。そして戦争が終わり、彼が日本を訪れたあかつきには、日本自慢の新幹線に乗ってもらおう。なぜか似たところのある互いの国民性について、ゆっくり語り合いたいと思う。

 (2023年2月11日 ワルシャワにて)

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