旧ソ連の最後の指導者、ミハイル・ゴルバチョフ氏が30日に亡くなった。一報を聞き、「また8月だ」と思った。ゴルバチョフ氏にまつわる僕の記憶は、なぜか8月のイメージだ。
現職のゴルバチョフ大統領を直接見たことがある。1991年4月に来日し、首相官邸で海部首相(当時)との会談に臨んだ際のことだ。僕は官邸詰めの若い政治記者だった。官邸玄関でゴルバチョフ氏の到着を確認し、一挙手一投足を見届けるのが役割だったと記憶している。
ペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(情報公開)によって、ソ連の疲弊した旧体制を変革し、自由や民主主義を取り入れた新たな連邦国家を目指そうとするゴルバチョフ大統領は、まさに国際社会のスターだった。わざわざ日本へ運び込んだのだろうか、ソ連製のがっしりした公用車で首相官邸に到着し、玄関ロビーの両脇に居並ぶ各社の記者に鷹揚に手を挙げ、邸内に入っていくゴルバチョフ氏の姿は、ある種のオーラに満ちていた。
ゴルバチョフ氏の凋落はその4か月後、8月のことだった。ここで8月の記憶がつながる。
そのとき僕は夏休みを取り、郷里の新潟の海で子どもを遊ばせていた。ニュースを聞き洩らさないために手元には携帯ラジオがあった。スマホのない時代はそうだった。
そのラジオでニュースが流れた。「ゴルバチョフ大統領」、「幽閉」、「クーデターか」といった言葉に、背筋が一瞬寒くなるのを覚えた。何か時代を画することが起きたように感じた。同時に「夏休みを切り上げて、東京に戻らなければならないのか」という、ひどく現実的な思いが交錯した。
余談だが、僕の夏休みは大きな出来事に遭遇することが多かったように思う。
ゴルバチョフ氏来日の前年、1990年の8月にはイラクがクウェートに侵攻した。湾岸は一気に緊迫し、アメリカの武力介入へとつながる。いまに至る中東の混乱の端緒になったと言ってもいい。僕はこのときも夏休みで、帰省先の新潟から車に家族を乗せて東京に帰る途中、車中のラジオのニュースで一報を聞いた。世界を巻き込んだこの出来事は、日本が武力以外でどう国際貢献を果たしていくかの議論を激しく巻き起こし、僕はその取材に忙殺された。
もっとさかのぼると、NHK岡山放送局に所属する新人記者だった1985年8月、つかの間の夏休みでやはり郷里の新潟でくつろいでいると、御巣鷹山で日航ジャンボ機が墜落したという衝撃的なニュースが飛び込んできた。休みを続ける気分にもなれず、その日の夜行列車に飛び乗り、岡山に帰ったところ、生存者の家族が岡山にいることが分かり、すぐにその取材に奔走することとなった。
話を戻す。ゴルバチョフ大統領を幽閉したクーデターは失敗に終わったが、保守派の強い抵抗が顕在化し、ゴルバチョフ氏の権威は失墜した。一方、自ら巻き起こした変革の波は、自身の想定を超えた巨大な波となり、ソ連が崩壊した。ソビエトの連邦体制を維持したまま民主主義国家を作り上げるというゴルバチョフ氏の野望は挫折し、ロシアの初代大統領となったエリツィン氏へとモスクワの実権は移った。多大な混乱とともに。
冷戦終結の立役者にして核軍縮の旗振り役であるゴルバチョフ氏の評価は、西側では極めて高い。ノーベル平和賞も受賞した。しかし、ロシア国内では破壊者としての印象が強く、国民からは酷評する声が聞かれる。ことはそう単純ではないようだ。
ゴルバチョフ氏が政治の表舞台を去ってから30年以上が経つ。ゴルバチョフ氏の挑戦が礎となる形で、ロシアは、民主主義を標榜する国家として再生の道を歩むようになった。しかし、その生みの苦しみの中で、ロシア国民は強い指導者を求めた。冷戦の「勝者」として振る舞う西側への不満がそれを後押しした。そうして表舞台に現れたのがプーチン氏だ。
時を経てことしの8月、僕は10日間ほどゆっくりと夏休みをとった。傍らには分厚い本があり、少しずつ読み進めていた。偶然にもそれは、最近日本語訳で出版されたゴルバチョフ氏の自伝。「我が人生」というタイトルだ。僕は夏休みが終わり、この本を読み終わろうという中で、ゴルバチョフ氏の訃報に接したのである。勝手ながら、どこか運命的なものを感じた。
ソ連の時代を経て、ロシアという国家を生きてきたゴルバチョフ氏とプーチン氏は、似た価値観も持っていた。ふたりとも、クリミアをロシアが併合するのは理にかなっていると考えていたし、西側の軍事同盟であるNATOが東方へと拡大することに強く反発していた。
しかし、プーチン氏が独裁色を強めるにつれ、ゴルバチョフ氏は重大な懸念を抱くようになる。ことし2月のウクライナへの「特別軍事作戦」の開始直後には、即時停戦を求める声明を発表した。愛妻も母もウクライナにルーツを持つというゴルバチョフ氏にとって、ウクライナは同胞ではあっても、一方的に侵略していい対象であるはずがないからだ。
プーチン氏がそんな先輩を、うとましいと思ったかどうかはわからない。
ゴルバチョフ氏の逝去の翌日、プーチン氏は家族に向けて弔電を送った。しかし
9月1日、ロシア大統領府は、プーチン氏がゴルバチョフ氏の葬儀に参列しないと発表した。
理由は、「職務上の都合」だそうである。
ゴルバチョフ氏の自伝をテーブルの上に置いておいたら、猫のコタローが頬ずりをしていた。コタローの方がよほど「人間的」である。
(2022年9月4日)