大越健介の報ステ後記

にゃんこの日なのに
2022年02月22日

40歳過ぎまでは本当にドメスティックな生活だった。政治記者だったので、有力政治家が海外出張する際に取材団のご一行として加わることはあったが、基本的に日本にいるだけで仕事も私生活も十分満足。海外旅行にも興味はなかった。
 それが2005年、44歳の時にまさかのアメリカ・ワシントン支局への転勤辞令が出た。英語なんて大学の受験勉強段階で終わっていたし、とても使える代物ではない。不安な気持ちでワシントンの空港に降り立った僕は、入国審査の厳しさに、何とも言えぬざらついた気分にさせられた。
 支局に到着し、先任の記者に「ずいぶん無礼なセキュリティチェックだね」と愚痴を言ったら、「当たり前です。戦争をしている国ですから」と素っ気なく言われてしまった。当時、アメリカは中東での「テロとの戦い」の最中であり、新聞には連日、イラクやアフガニスタンで戦死した兵士たちの顔写真が掲載されていた。平和な日本で、自分は何も感じないまま日を送っていたことに、そのとき気づいた。
 
僕はその後、情報取材を主とする記者の仕事から転じて、報道番組のキャスターを務めるようになり、番組のために世界各地を頻繁にロケして回るようになった。その中でも忘れられないのがウクライナ取材である。
 ロシアに近い東部・ドネツクを取材したのは2014年だった。ウクライナ政府の庁舎を、親ロシアの武装勢力が占拠し、庁舎前の広場は多くのロシア系住民でごった返していた。車に乗り込み、市内を車中から撮影していた時のこと、僕たちのクルーは武装勢力に取り囲まれた。カメラのデータを渡せ、携帯電話の中身を見せろという要求を、通訳の男性が何とかやり過ごすうちに1時間ほどが経過し、だんだん場が和んできた。
武装した男たちが「実はオレ、この先でクリーニング屋をやっているんだ」、「あんたの携帯に入っているネコ、かわいいな」などと軽口をたたくようにもなった。いよいよ解放されるかというとき、後ろの方から軍服を着た、怖ろしげな男が現れた。
「あんたたちにとっては他人事かもしれないが、俺たちは命を張っているんだ。失せろ」。とその兵士は言ったらしい。そこで私たちは解放された。
「あの男は本当のロシア軍兵士だと思います」。通訳氏は現場を後にした車中で、いかにも肝を冷やしたという風にため息を漏らした。
このときは、ワシントンの空港で感じたざらつきよりももっと激しいもの、つまり恐怖を感じた。そして、このドネツク州や、同じくロシアと接する隣のルガンスク州は、いま、おそらくその時以上の緊張にさらされている。

「常識で言えばこうなるだろう」という想定通りに物事が運んだら、戦争など起きないだろう。誰も死にたくないし、殺したくもないはずだからだ。しかし、想定通りにいかないからこそ、戦争は起きる。あるいは、想定になかった偶発的な出来事から戦争が起きるのは、歴史が教えるとおりだ。

ロシアのプーチン大統領がなぜウクライナに干渉するのか。遠くから見ている限りは理解できないことばかりだ。
ロシア語を話すロシア系住民が多いから自国に併合したいのか。だが、それを言い出せば近隣のすべての国と戦争になる。そんな賭けにでるはずがないと考えるのが自然だろう。いや、野望はもっと大きく、旧ソ連の版図を回復したいのか。しかし、ソ連崩壊から30年余りがたち、各独立国は主権を持った存在だ。それぞれが独自の外交戦略を持ち、口をはさむことは主権侵害にほかならない。常識で許されないから、そんなことはないはずだ。
しかし、そうした常識を覆してきたのがプーチン大統領でもある。2014年、ウクライナの一部であるクリミア半島を、武力を背景に併合してしまった「実績」がある。国際常識の論理だけにとどまっていると、現実が次々に想定を超えていってしまう。

この原稿を書いている2022年2月22日現在、ロシアと欧米各国との神経戦、情報戦が続いている。プーチン大統領はドネツク州やルガンスク州の一部地域を独立国家として承認することを一方的に宣言し、平和維持を名目に同地域に派兵することを決定した。欧米、そして日本はこれに強く反発、実際に戦端が開かれるかどうかを見極めつつ、制裁の段階的な発動に踏み出そうとしている。新聞の朝刊を開くころには、テレビのニュースやネットの記事が、朝刊の見出しを追い越している。事態はそれほど目まぐるしく動いている。

プーチン大統領の意図やいかに。だが、本当に怖いのは、彼自身が自分の意図を制御できなくなる時かもしれない。切れ者の戦略家として知られるプーチン大統領も、やはり人間である。振り上げたこぶしの下ろしどころが見つからずに、本人すら想定していなかった行動に出てしまう可能性すら否定できない。
そこを甘く見てはいけないのだと思う。何より、ロシアとヨーロッパ各国に挟まれているがゆえに、宿命的な地政学的争いに巻き込まれてきたウクライナという国の苦難に、まずは思いをはせる必要がある。

2022年2月22日は、2という数字が並ぶということで、ネコの日らしい。
だから、わが家のコタローの一日でも紹介しながらほっこりコラムを書こうと思ったが、世の中があまりに騒がしい。緊迫のウクライナ情勢、北日本を襲う冬の嵐、新型コロナ・オミクロン株の亜種の広がり、幼子を殺害したとして逮捕された母親の、きわめて理解しがたい過去の行動。とてもコタローの写真で受けきれる世情ではない。

北京オリンピックが閉会したと思ったら、一気に世の中の空気が変わったように感じる。スポーツ好きの僕だけかもしれない。もともと世の中にあった「ざらつき」が目に見えて現れたということなのかもしれない。
アスリートのドラマに感動したり、世界情勢を嘆いてみたりと、とかく報道の仕事は忙しい。忙しさにかまけて大事なことを見過ごしてはならない。背筋を伸ばして、きょうのニュースに向き合おう。

(2022年2月22日)

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