村山さんを偲ぶ
2025年10月19日

 ずいぶん昔の話だ。あれはPKO協力法(国連の平和維持活動に自衛隊が参加することを盛り込んだ法律)の法案審議で国会が大いに揉めていた時だから、1991年だったと思う。国会議事堂から中庭に抜ける廊下のあたりで、背が高く眉毛の長い紳士が歩いているのに出くわした。あの頃、野党第1党・社会党の国会対策委員長だったこの人の周りには、いつも国会情勢を探る番記者たちが取り巻いていたのだが、珍しくひとりだ。
 この人がのちに総理大臣となる村山富市さんである。17日、101歳で亡くなった。
 
 当時NHKの政治部記者だった僕は、同じ野党でも民社党という政党の担当で、担当外の村山さんとは面識もなかったが、ここはチャンスとばかり村山さんの横につき、いくつかの質問を投げてみた。「うーん、どうじゃったかなあ」などとはぐらかす答えが返ってきた記憶があるが、それより「あんた、昼めし食ったか」と声をかけられて驚いた。「まだです」と答えると、議事堂の中庭に面したそば屋に誘われた。カウンター席に座り、キツネだったかタヌキだったかのそばを食し、「おごっちゃるわ」とさらりと支払いを済ませて立ち去った、そんな村山さんの姿を覚えている。肝心の取材の中身は忘れてしまった。

 数少ない取材経験しかないが、村山さんはそういう人だった。
 その後、政局は激動した。1993年、政治改革をめぐって分裂した自民党は、宮澤喜一首相のもとで解散・総選挙に臨んだが、過半数を維持できず下野。非自民の連立8党派による細川護熙内閣が発足し、党トップとなった村山委員長率いる社会党も政権に加わった。だが、政権の最大の実力者・小沢一郎氏の政治手法に「強引だ」との反発の声が噴出し、社会党は、半年余りで政権から離脱。細川内閣の後を受けた羽田孜内閣は94年、少数与党ゆえの苦難でこれも短命に終わる。

 ここで前代未聞の勝負に出たのが野党・自民党である。過半数を形成するために、社会党、新党さきがけの3党で手を組もうと水面下で動いた。この時の自民党は、河野洋平自民党総裁、森喜朗幹事長という体制だったが、執行部以外にも、社会党とのパイプを持つ複数の議員が動いたのは確実だ。当時、自民党小渕派の担当だった僕は、小渕派のある人物をマークして動静を必死に探ったが、結局実相はつかめなかった。

 そうして、衆参の本会議での総理大臣指名選挙の日が来た。自民党が社会党委員長の村山富市氏を、小沢氏が主導する非自民勢力が、かつて自民党総裁でもあった海部俊樹元首相を担ぐという驚天動地の展開の中、結果を見通すのは困難だった。
社会党の委員長を担ぐことへの拒否感から、自民党からは造反が相次いだが、結果は村山首相の誕生となった。それまでの経過はあまりに複雑で、僕の取材も追いついていたとは言えないが、ほぼ野党一筋の村山さんが、自分から総理の座をつかもうとしていなかったのは確かである。村山首相は、いわば「政治状況が生み出した総理大臣」だった。

 だが、国政のトップに座ってからは、肝が据わっていた。自衛隊を憲法違反としていた社会党の党是を一気に転換、就任最初の代表質問での答弁で、自衛隊合憲を打ち出した。党員の離反を覚悟の上で。
 阪神淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件といった歴史に残る大激動を、政権の体力を削がれながらも乗り切った。そして、先の戦争から50年の節目である95年の終戦の日、戦争の反省を痛切に綴った「村山談話」をとりまとめ、発表した。
 
 それから20年、つまり今から10年前、僕は村山さんにインタビューするために地元の大分を訪ねたことがある。総理経験者には似つかわしくなく、待ち合わせ場所にひとり、徒歩でやって来た。かくしゃくとしていた。インタビューで村山談話について聞くと、「自民党ではなく、社会党の自分が総理大臣になったことの意味を考えた。社会党出身の自分だからこそ、できることがあると思った」と話していた。連立工作の末に巡ってきた首相の座だが、偶然ではなく必然と捉えることで、自身の使命が明確になったというわけだ。平和を訴え続けた政治家の気骨を感じたインタビューだった。

 飾らない人柄を物語るこんなエピソードもある。村山内閣で通産大臣として入閣した橋本龍太郎さん(村山さんの後任の首相である)が教えてくれた。
 村山さんが首相就任後、初めての日米首脳会談に臨むため訪米した時のこと。外交経験の乏しい村山さんが、日本のトップとして、当時のビル・クリントン大統領とどう向き合うのか、周囲は気をもんでいた。橋本さんも首脳会談に同席することになったが、気が気ではなかったそうだ。
 しかし、相手の心の扉は意外とあっけなく開いたという。村山さんは先の戦争に学徒兵として入隊した経験を持つ。戦争が終わり、貧しさの中で労働組合運動に没頭したこと、その後政界に進み現在に至るという個人史を、訥々(とつとつ)と語った。クリントン大統領が身を乗り出すにようにして、じっと耳を傾けていた姿が印象的だったと橋本さんは語った。外交の巧みさでなく、人間性そのものでアメリカ大統領の心を引き寄せたのだと。

 平成以降の政治史は、連立の動きなしには語れない。国会の現場で取材をしてきた僕は、今振り返り、それぞれの時代的な意味があったと感じている。
 94年の自民党と社会党の連立には、「野合」とか「禁じ手」といった批判が渦巻いた。一方で、この時の連立の主役たちはみな、戦争を経験した世代だったことを忘れるべきでない。当時、僕が取材していた梶山静六さん(自民党幹事長などを歴任)はよくこう言っていた。「自民党だろうが社会党だろうが、みんな悲惨な戦争はこりごりだという思いは共通している。やり方が違うだけで根っこは同じなんだ」。つまりは、戦争を繰り返さないという切実な思いが、イデオロギーが異なる自社を結び付けた、物言わぬ共通政策だったとも言える。
 公明党と組むという選択は、衆参で過半数を確保したい自民党の小渕恵三政権が、周到な準備によって実現したものだった。その後、東アジア情勢は不安定さを増し、自民党が安全保障政策の強化に前のめりになる中、公明党は一定のブレーキ役となった。両党に醸成された独特のバランスによって、安定した自公政権の歴史を築いた。

 そしてまた、新たな連立政権の樹立に向けた動きが激しくなっている。公明党に代わり、自民党が連立のパートナーとして頼みの綱としているのが、日本維新の会である。自公でない、自維の政権の枠組みができるとすれば、日本はどのような方向に向かうのか。
維新が強調するキーワードは、「身を切る改革」と「成長」である。自民党にブレーキをかける公明党でなく、自民党の尻をひっぱたく維新との連立政権が樹立するとしたら、この国をどの方向に導くのか。
 その一歩を決める大事な1週間が始まる。
 
(2025年10月19日)

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