混じり合う思い
2021年12月11日

人が人の命を奪うことがあってはならない。だから戦争はあってはならないし、戦争を引き起こさないための外交が大事だ。だが、戦争を否定することで、戦地に赴いた職業軍人の使命感まで否定していいはずもない。

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吉岡政光さん103歳。80年前の1941年12月8日、太平洋戦争の火ぶたを切った旧日本軍による真珠湾攻撃に出撃したひとりである。その吉岡さんへのインタビューが実現した。
海軍の航空兵だった吉岡さんは「選ばれし人」だ。選抜のための何回もの試験を経て、空母「蒼龍」の艦載機・九七式艦上攻撃機に搭乗することとなった。九七艦攻は縦一列の3人乗り。偵察員として真ん中に座る吉岡さんは、高度を読み、針路を計測したりするほか、機体から魚雷を投下する役割を担った。

真珠湾での作戦は知らされていなかった。大分の佐伯湾で、深さ約10メートルの海に低空から魚雷を投下する浅海面襲撃訓練を繰り返していた。思い起こせばそれは、水深が浅い真珠湾を想定してのことだった。
吉岡さんたちに何も知らされないまま、「蒼龍」は11月、佐伯湾を出港。艦内に張り巡らされたパイプ類にはすべて石綿が巻かれていた。寒いところに行くのだとは分かったが、半ズボンの夏服を積み込んだという話もあり、吉岡さんは「じゃあ、あったかい所に行くんじゃないか」とも思った。いずれにせよ「たぶん戦争に行く」とは感じていたという。

ハワイへの奇襲作戦が告げられたのは、数日後、千島列島の択捉島・単冠(ひとかっぷ)湾上だった。「蒼龍」を含む機動艦隊を率いる南雲忠一中将の訓示には、「10年兵を養うはただ1日これを用いんがため」とあった。自分たちが糧食を与えられ、訓練を受けてきたのはこの決戦の1日のためにあるというのだ。
吉岡さんはこの時のことを振り返って言った。
「私は頭の血がサーっとデッキに吸い込まれるような感じでした。難しい文章でしたけれどもちゃんと意味が分かりました。ハワイで死ぬってことなんだよなと」。

部隊は南下。そして作戦決行の日は来た。吉岡さんらは、真珠湾に浮かぶフォード島に集結したアメリカ艦船を雷撃するため、「蒼龍」から九七式艦攻で飛び立った。およそ3トンの機体に800キロの魚雷を括り付けてある。
「魚雷が重いものですから、母艦を離れるときにいったん飛行機が落ちる。その時に下からかかる風圧で機体が上がっていく」。リアルな体感を吉岡さんはきのうのことのように覚えていた。

先発機の攻撃によってすでにもうもうと上がる黒煙の中で、艦船のマストを視認した。コロラド級戦艦だと思った。だが戦艦にしては小型だとも思った。「あれ、おかしいなと思っているときに『ヨーイ、テッ(撃て)!』と合図があった。魚雷を落下すると、その証拠に飛行機がふわっと浮き上がりました」。
しかし、狙った船には砲身がないことにその後、気づいたという。想定していたコロラド級戦艦ではなく、もっぱら訓練用に使われる標的艦「ユタ」だった。沈めたとしても戦果は小さいため、事前に攻撃対象からは外すように言われていた艦船だった。

「がっかりしました」と吉岡さん。
しかし、「(ユタは)アメリカ艦隊付属のなくてはならないもの。魚雷が命中してマストがゆっくりと倒れ、もう間違いなく倒れたということを確認すると、それまでは後ろを向いていたが、もうこれでいいと思って前を向きました」。
「ちゃんと魚雷が当たっていますので喜びの方が60%、当たらなかったことが40%。やっぱり少し良かったと思っています」。

その後も吉岡さんは南太平洋などを転戦した。吉岡さんが空母「蒼龍」の配属を離れたのちの翌1942年6月、その「蒼龍」はミッドウェー海戦で撃沈された。吉岡さんは日本軍の限界を感じていた。
「ミッドウェー以降は『日本、勝てるのかな』という気持ちがありました。その後は飛行機も故障が多く、なかなか数もそろわない。古い飛行機を使いながら、ろくに訓練していない人が乗る。誰も口に出して言いませんけれども、勝てるとは思わなかった」。

終戦は、そのとき所属していた茨城県の海軍航空隊で迎えた。戦後、海上自衛隊や民間企業に勤務したが、自らの戦争経験を語ることはほとんどなかった。
「あまりしゃべりたくなかった。最近になって、こういうことを話す人が非常に少なくなったことに気づきました。戦死した人の慰霊にもなるだろうと」。
戦争のむごさを、いま誰よりも知る103歳である。
「(戦争は)一番残酷な殺し方。ちゃんと外交をやって戦争を止めなければ、と思います」と語る。

真珠湾でのアメリカ側の死者・行方不明者は2400人以上。吉岡さんが魚雷を命中させた標的艦「ユタ」は、今も54人が艦内に眠る「戦没者墓地」として真珠湾に遺されている。
吉岡さんは真珠湾攻撃以降、ハワイに行ったことはない。行くのを拒み続けてきた。
「どう考えても一番大切なものは人間の命。人間があそこにはいた。それを考えると、どうしてもハワイには行けない」。
一方で、吉岡さんは自分に折り合いをつけるように言葉をつないだ。
「一度でも人を殺すとは思わなかった。(私に対する)命令は、軍艦をやれ、工廠をやれというもの。人間をやれという命令を受けたことはないんです。責任逃れではありませんが、そこに人がいるってことを考えたら爆撃できない」。
自分は結果的には人の命を奪ったが、人の命を奪おうとしたのではなく、艦船などの「モノ」を破壊したのだ。吉岡さんは心の中の苦しい一線を行き来していた。

吉岡さんはとても聡明な方だった。記憶は詳細だし、言葉もよどみがない。
しかしその吉岡さんにして、戦争での任務に命を懸け、生き抜いた事実を総括するのは難しそうに見えた。真珠湾攻撃から80年、終戦から75年余りが経った今も、である。
戦争が人間にもたらすものは、それほど底が暗く、罪深い。

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