この日、報道ステーションの放送に向けた昼過ぎの電話打ち合わせで、担当デスクは僕にこう言った。
「大越さん、きょうは腹を決めてもらいます」。
デスクの意図は分かっていた。僕は短く「了解です」と答えた。
「腹を決める」とは、この日はエリザベス女王と心中するという意味だった。いや、心中という言葉は不穏当だ。寄り添う、というのもちょっと違う。とにかく、この日の番組を、エリザベス女王関連のニュースで貫こうというわけである。
9月12日、エディンバラから首都ロンドンに帰っていたエリザベス女王の棺は、住み慣れたバッキンガム宮殿から、テムズ川に近いウェストミンスター宮殿へと移されることになっていた。移すという言葉では物足りない、とにかく荘厳な葬送の列であり、ロイヤルファミリーも勢ぞろいだ。
沿道で市民が見守る1.8キロの道のりを38分かけて進む行程が、あらかじめ発表されていた。日本時間で夜10時22分に出発し、11時に到着する。報道ステーションの放送時間帯に、まさにドンピシャなのである。
もちろん、ニュース番組である以上、1時間余りの放送時間の中で、その日に起きた大事なニュースをできるだけ多く取り上げたい(実際、この日のトップには、東京五輪をめぐる汚職事件で、出版大手KADOKAWAの会長が逮捕されるというニュースを据えた)。
一方で、われわれはテレビ屋である。今まさにライブで起きていることを、プロの技術で伝えることこそ、テレビにしかできない仕事だ。そこで、冒頭のバッキンガム宮殿からの棺の出発、到着してホールに安置されるまでの一連の儀式を、他のニュースを挟みながら中継映像で伝え続けた。
遠い日本にあって、イギリス王室には興味がないという人だって少なくない。また、こういう日だからこそ、世論を二分している安倍元総理の国葬の問題を、十分な時間をとって伝えるべきだという友人もいた。ウクライナの続報や、為替と株の情報をもっと知りたかったという声もあった。
いずれも道理である。
女王の葬列について中継で伝える時間が増えれば増えるだけ、他のニュースは短くなるし、場合によっては項目から除外せざるを得ない。批判があれば甘んじて受け入れなければならない。だからこその「腹を決めてください」というデスクの一言であり、僕の「了解」という返答だったのだ。こうなればテレビ屋スピリッツ全開で突き進むしかない。
中継映像を見ながら、エリザベス女王の70年の君主としての足跡、同行するロイヤルファミリーの顔触れや葬列での配置など、映像に即してスタジオで解説を加えてもらった。ついこの前までロンドン支局長として勤務し、イギリス事情に精通するベテラン記者がちょうど東京に帰任したばかり。彼が解説者席に座ってくれたことが、番組にとっては大きな強みだった。
スタジオ展開はかなりをアドリブに頼らざるを得ない。ルートと時間は決まっているわけだから、葬列が何時にどの地点を進むかというのは地図上で計算すればだいたいわかる。しかし、目に飛び込んでくるものは見たことのないものばかりだ。
葬列につらなるファミリーの表情や距離感、衛兵の緊張、鳴り響く弔砲などの音声情報、棺を乗せた馬車を引く馬の黒毛のツヤに至るまで、これこそニュースではないか、と感じた。そして、この光景を伝えることは、単なる野次馬根性にとどまらない、ひとつの時代の節目を伝えることとイコールなのだと、僕は理解した。
ケースは違うが、実はNHKのキャスター時代にも、似かよった経験がある。その日のスタジオには、時の総理大臣がゲスト出演することになっていた。相応の時間を割く必要があった。
僕はといえば、政治家はテレビカメラの前では慎重になりがちだし、判で押したような発言に終始するのではないかという懸念が先立った。「できるだけコンパクトにまとめようよ」と消極的な提案をする僕に、あるスタッフが反論した。
「現職の総理がそこにいる。その発言の中身がどうあれ、今そこにいる日本の最高権力者が、どのような表情で、どのような言葉を選ぶか、そこにあなたがどう突っ込むか。それこそ最高のライブニュースじゃないですか」。
僕は深く納得し、結局1時間の放送時間のうち、45分を総理のインタビューに当てる結果となった。「そろそろしめて!」というカンペも目に入らず、生でのやり取りに没頭してしまった。予定していた他のニュースは何本かがすっ飛んでしまった。
場所が違い、時差があり、環境が大きく異なっていても、地球上の僕たちは同じ「いま」を生きている。「いま」の積み重ねの中にニュース報道があり、その「いま」そのものがニュースになることもある。
テレビ屋スピリッツが震える瞬間である。
(2022年9月18日)