災害障害者を知っていますか?
2022年01月29日

雪中四友(せっちゅうしゆう)という言葉を初めて聞いた。
気象予報士の眞家泉さんによると、梅、水仙、山茶花(さざんか)、そして蝋梅(ろうばい)のことを指すそうだ。冬に花を咲かせ、古くから画題として好まれたという。
お気に入りの散歩コースで、雪中四友のひとつ、蝋梅の黄色い花を見つけた。うつむき加減に遠慮がちに咲く姿が可憐だ。黄色い花弁を揺らす冷たい風はまだ真冬のそれだが、甘い香りには豊かな生命力を感じさせる強さがある。ことしも変わらず春がやってくるのだと、確信させてくれる。

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真冬にもかかわらず、そのときにも咲いていた花はあったかもしれない。
しかし、がれきが山をなし、あるいは炎が街を包んだ27年前の1月17日、阪神淡路の一帯では花を思う余裕のある人などいなかっただろう。
あの震災では、災害関連死も含めて6434人が命を落とした。その事実はあまりにも重い。だがその重さゆえに、陰に隠れてしまった人たちがいる。震災によって重傷を負い、その後も障害を背負って生きてこなければならなかった「災害障害者」たちだ。
その「集い」を取材した。

「行政の怠慢でしょうか。それとも社会の盲点でしょうか?」
そう問うと、甲斐研太郎さん(73)は「どちらかと言うと盲点でしょうね」と淡々と答えた。
甲斐さんは神戸市東灘区の自宅で妻と就寝中に被災した。「飛んできたタンスに両足首を挟まれて、そこに2階の部屋ごとドスンと落ちてきた」という。がれきの下から救援隊に助け出されるまで20時間余り。担ぎ込まれた病院は「ベトナム戦争の野戦病院みたいだった」と振り返る。
転院を経て退院まで11か月、骨折などの手術は計8回に及んだ。回復不能となった足の組織は背中から移植した。その医療技術を、甲斐さんは感謝の気持ちを込めて「整形(外科)のスピリッツ」と表現したが、いまも跛行が残り、変形した足は既製品の靴が入らない。

少し想像すればわかることなのだ。あれだけの災害があれば、多数の重傷者が出る。その傷がそのまま重い障害となって残る人も多い。それは残念ながら至極当然のことだ。なのに、行政をはじめ世間はあまりにも鈍感だった。われわれマスコミを含めて。
彼らの存在は決して盲点であってはならなかったのだ。

鈍感な世間に何とか風穴を開けようと奮闘してきたのが、牧秀一さん(71)だ。震災当時、大阪の定時制高校の数学教師だった牧さんは、避難所でボランティア活動にあたったことをきっかけに、被災者支援がライフワークとなった。神戸で「よろず相談室」というNPO法人を設立し、真新しい災害公営住宅で、コンクリートの厚い壁の内側で孤立してしまうお年寄りなどの支えとなってきた。
その牧さんにして、震災によって障害を負った人たちが置かれた孤独を知り、支援活動を始めたのは震災から10年余りが経ってからだった。牧さんは、集いの場を設けて障害者同士をつなぎ、悩みや苦しみを吐き出してもらう取り組みを始めた。そうしてあぶり出された要望を、行政側につなげることに力を尽くした。

「彼らは『生きてるだけましやないか』と言われて、もう何も言えなくなる。震災で障害を負ったというのに、弱音を言えない。みんな孤立してしまうんです」
牧さんは災害障害者が置かれてきた境遇をそう説明した。
震災によって障害を負った人たちも、障害者手帳は支給されるし、一般的な福祉政策の対象とはなる。しかし、震災で障害を負った人たちの多くが、同時に家財を失い、場合によっては家族を失った多重被害者だ。それに見合った支援が必要なのだ。
せめて、行政はそうした人たちの実態を調査すべきだ。そして悩みを聞いて対処する相談窓口くらい設けてしかるべきだ。しかし、懸命に訴えてもそれすら遅々として進まない。神戸市や兵庫県といった自治体は要望に耳を傾けたが、国にはなかなか通じないと言う。牧さんはそれが無念でならない。

牧さんがとりわけ気にかけている人たちがいる。城戸美智子さん(69)、洋子さん(41)の母娘だ。娘の洋子さんは当時中学3年生。神戸市灘区の市営住宅で被災した。洋子さんは倒れてきたピアノの下敷きになった。なんとか救出され、母の美智子さんが必死で病院に付き添い、一命をとりとめたが、脳に重い障害が残った。美智子さんは行政の冷たさを嘆いた。
「私たちが忘れられた存在であるということを、声を大にして言いたいのです。障害を負って生きていかなければならない私たちに、なぜ相談窓口すらないのでしょうか」。
洋子さんはいま、作業所に通い、ピエロの姿で特別養護老人ホームなどを訪問する仕事をしている。障害者雇用の制度を使って数か所の企業実習を試みたがうまくいかなかった。娘の将来を考えると、母の美智子さんの不安は尽きない。

取材した「集い」の日、牧さんは障害を負った洋子さんの髪に、一筋の白いものを見つけた。
「あのとき中学生だった子が・・・。もうあれから27年が経つんですよ」
牧さんはつくづくやるせないといった表情で言った。
その牧さん自身、支援活動を「しんどい」と言う。悩み苦しむ人たちに寄り添うことは、それ自体がとても気力と体力を消耗する仕事だ。牧さんは去年暮れ、自らが理事長を務めてきたNPO法人「よろず相談室」を解散し、一般のボランティア団体にダウンサイジングすることを決めた。
牧さんもまた、あれから27年という年齢を重ねていた。それでも、大学生など若い人たちが、引き続き支援の活動に当たってくれるのが心強いと言う。

追加

時間の経過とともに記憶は薄れる。しかし、時間が経過しても癒されない痛みや苦しみも存在する。私たちはそのことを決して見過ごしてはならない。盲点を盲点のままにすることは許されない。
阪神淡路大震災の1月17日が過ぎて、東日本大震災の3月11日がやってくる。
蝋梅が咲き、次は梅が咲く。春を待つこの季節は、日本が災害大国であることを改めて心に刻み込む季節でもある。

(2022年1月29日)

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