公害時代に育った僕たちは
2024年05月11日

 被害者団体の心から、ずいぶんと遠いところまで離れてしまったようだ。そして、環境省がこのたび取った態度は、水俣病を過去へとさらに追いやるかに見えた。
 だからこそ問い直したい。環境省とは、そもそもどこから来たのか。

 今の環境省、当時の環境庁の発足は1971年である。
 僕はこのころ小学生だった。テレビは盛んに水質汚染や大気汚染などの公害のニュースを伝えていた。僕が映像として最も鮮烈に覚えているひとつが、静岡県の田子の浦港のヘドロ公害だった。工場から川に排出された汚水が、港に堆積してヘドロとなるさまは衝撃だった。
 そして、水俣病は僕にとって遠いものではなかった。育った新潟市には阿賀野川が流れ、わが家から自転車で15分も走ればその大河はあった。上流に立地する工場から排出される水銀化合物を含む魚を食べた人たちに中毒症状が続出した。熊本県の水俣病と同様の原因と症状であり、新潟水俣病もまた、当時の四大公害病のひとつに数えられた。

 ちなみにいま、スマホの検索画面で「田子の浦」と打ち込むと、検索候補の上位に海鮮や釣りにまつわる項目が並ぶ。和歌にも詠まれた、富士山を望む美しいイメージが戻っているとしたら嬉しいことだ。
 環境省のホームページから「環境省五十年史」を開いてみると、1967年の公害対策基本法の制定当時を起点とし、「20年ぐらい汚染対策の時代」が続いたとOBが振り返っている。また、「環境庁設置で進展したことを一言で格好良く言えば、汚染との闘いに勝利したということだと思います」と述べている。

 確かに、「公害」という言葉を使う機会は減ったと思う。有名行楽地に内外の観光客がゴミを落としていく様を、「観光公害だ」と憤慨することはあるが、これとて「オーバーツーリズム」という言葉に、今はほぼ包含されている。
 だが、汚染の実態は大きく軽減したとしても、過去の公害の傷跡は生々しく残っている。

 5月1日、熊本県水俣市で開かれた、水俣病患者らの団体と伊藤信太郎環境相との懇談の場で、団体側の発言がぶつりと切られた。3分の発言時間が過ぎたからとマイクがオフにされたのだ。呆気にとられる発言者。ややあって怒りの声をぶつける支援者。険悪な場からそそくさと立ち去る伊藤環境相。時間の制約はある程度仕方ないとしても、こんなやり方はないだろう。
 伊藤環境相の対応は政治家としてどうか。水俣病に苦しむ人たちの声に直接耳を傾ける仕事は、政治そのものだ。まさかの官僚の不手際に、術もなく立ち往生したことについては、政治家としての自覚を問われても仕方ない。結局、伊藤環境相は1週間を経て現地に謝罪に出向くことになったのである。

 「環境省五十年史」を読み進めると、1995年、水俣病のいわゆる「第一次政治解決」に立ち会った環境省OBたちの証言があった。当時の大島環境庁長官のもと、一定の症状がある約1万人に一時金約260万円や医療費を支給するものだった。
 証言は示唆に富む。救済を求める患者たちにとっては、「補償金を幾らもらうとか、そういう話はあるけれども、それより前に、自分が故なく紛争、裁判を起こしているのではない。故なく助けてくれ、救ってくれと言っているわけではない。自分を水俣病と認めてくださいと、こういうところをどう解決するか」ということが問題だった。
 政治家である大臣と官僚たちの歯車がかみ合ったこの時の決着を、長官秘書官を務めたOBは、「政治と行政がどういうふうに連携すると大きな課題解決ができるかということ。その1つの例なのかなと思います」と振り返る。

 だが、この政治解決もまた、一定の線引きによるものであり、とうてい最終解決とは言えなかった。未認定のまま苦しむ人の裁判は続き、国は2009年、特措法を作ってさらに救済の輪を広げたが、それでもその対象から漏れた人たちの苦しみは顧みられず、冒頭のような各団体が声を上げ続けている。
 つまり、水俣病は終わっていない。水俣病は、不幸にしてその人が負ってしまったアイデンティティーのひとつであり、それが認められないことの悔しさと苦悩は、補償金の多寡では測れないものだろう。

 「環境省五十年史」に登場する、水俣病問題に関わったOBの証言にはこうある。「気候変動のような現在進行形の環境問題等を考える上でも、環境に不可逆的な影響を残してしまうと、後々その修復もできずに困ってしまう。(中略)やはり、そういう意味で水俣病というのは原点だと思います」。

 原点を忘れてしまったかのような、今回の環境省はまずい対応だった。だが、僕は彼らばかりをあげつらうつもりはない。なぜか。それは、彼らの姿はわれわれ現代人の写し鏡でもあるからだ。
 今の日本人は、戦後の高度成長時代の礎の上に生きている。その高度成長の陰にはいくつもの犠牲があった。水俣病などの公害病で命を失った人たちの、文字通りの犠牲もあれば、生活の一部、あるいは大部分が犠牲になった人たちもいる。そしていまなお、病気の認定すらされず、救済がままならない人たちの叫びがある。
 そのことを改めて心に刻む必要がある。僕たちは過去の犠牲に鈍感であってはならない。それは遠のいてしまった景色ではなく、今なお生き続ける現実だからだ。

 環境問題は、気候変動をはじめ、グローバルな社会課題として現在と未来に重くのしかかる。子や孫の世代に負担だけを残していくわけにはいかない。だからこそ、少し落ち着いて自分たちの現在地を確認する必要がある。過去の課題の何をどう解決し、何がどう積み残されたのか。
 公害時代に育ち、高度成長を享受した僕たちの世代は、特にそのことに敏感でありたい。

 (2024年5月11日)

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