連日、パワーハラスメントのニュースに溢れている。
パワハラのニュースを伝えるたびに、その被害者の痛みを思う。自分の友人たちの中にも、わが子が職場で上司のパワハラに悩んでいるという話を複数聞いた。何とか部署替えが実現してホッとしたというケースもあれば、会社を辞めざるを得なくなったというケースもあった。現実の日常リスクとして、これほどクローズアップされた分野は珍しいと言っていい。
これだけ痛い思いをした人が次々と顕在化している以上、問題を解消しなければならない。誤解を恐れずに言えば、解決の取り組みを、日本社会の進歩の糧にしていく必要もあると思う。
粗暴な犯罪が横行する街の不穏。情報共有のツールであるSNSが社会の分断をあおる皮肉。物価高にあえぐ日常生活。ニッポンはいま、八方ふさがりの状態に見えて仕方がない。そんな現代をブレイクスルーして、幸福度の高い社会を目指す必要がある。当面の経済対策などとは別の大きな伸びしろがあるとすれば、それはむしろ人々の心のありようなのではないか。
ハラスメントのない社会。それこそがこれからの僕たちの目指す道だ。
だが、現実はそう簡単ではない。社会が大きな曲がり角に来たとき、どうしてもカーブを曲がり切れずにコースを逸脱してしまう人たちはいる。
先日番組で伝えた、福岡県の宮若市長の「パワハラ事案」を見てそのことを痛感した。
市長が公用車を運転する職員を怒鳴りつける様子が、ドライブレコーダーに収められていた。こんな発言があった。
「運転手として行ったら、自分のスマホ見るんか?」。詫びる職員に対し、「すみませんで済むか!」とたたみかける。「そういう実態も知らんで、なんで公務員が務まるか!」と発言しているところを見ると、市長に同行した訪問先で、職員が車の中にとどまり、会話に加わらなかったことに腹を立てたようにも見える。
市長室での会議でも、恫喝に近い場面があった。市長は資料の作り方が不満だったようで、「仕事なめんなよ、仕事!仕事なめたら駄目!とことんやれって、仕事は!」とまくしたてる。その挙句、「そんならお前、辞めればいいじゃないか!」とまで言い切った。発言はすべて録音されていた。
こうして明らかになった高圧的な言動について、市長は取材に対し、「言った人と言われた人との関係が一番大事ですね。相手がどう受け取ったかが一番大事」と答えている。
つまりは愛のムチ、と言いたいのだろう。相手とは信頼関係ができており、パワハラとは言えないという主張のようだ。
こういう答えはわりとよく聞く。そして、こうした答えが、方便や言い逃れだったらむしろわかりやすい。厄介なのは、本当に愛情の一環だと考えていたら、というケースだ。
さっそく報道ステーションの井澤健太朗アナウンサーが宮若市にかけつけ、市長にインタビューを申し入れた。
井澤「言い過ぎたのでは?」
市長「あくまで人間関係の中で、言葉って発せられるので、それを一番大事にしている」。
予想された答えだろう。井澤アナはさらに突っ込む。
井澤「今後、改めようとか考えないか?」
市長「自分が勝手に思い込んでいる部分があれば改めなきゃとは思います」。
ご本人に反省の気持ちがないわけではなさそうだが、一方的に非難されるのは納得できない様子だ。自分なりに職員とのコミュニケーションを大事にしているし、職員の幸せを願っていることを強調する。ところが、最後の質問への答えに、ちょっと途方に暮れたような表情を浮かべた。
井澤「そういう考えをお持ちなのに、職員からパワハラ被害と言われるのは残念では?」
市長「まあね、難しい・・・。わからんたいね」。
一般論として、世の中にはお節介も必要だ。パワハラと受け止められることを恐れて、例えば年長者が若い人に対し、何の指導もしなくなれば、世代間の断絶どころか、文化そのものも途切れて行きかねない。
ただ、本人が愛のムチだと思っていても、一方通行であれば、それはやはりパワハラとなると考えた方がよい。
去年4月には、すべての企業を対象に「パワハラ防止法」が施行された。
日本は空前の高齢社会を迎えている。なかなか新しい価値観や行動様式になじめず、「昔ながらの愛のムチ」を振るってしまう人は、地方自治体のベテラン首長や議員などで特に目立つ。
そうした人たちを含めて、社会の曲がり角を、上手に曲がっていかなければならない。
「わからんたいね」では放っておけない問題である。
(2023年12月6日)