折に触れて電話をかけ、自分が担当する番組について意見を聞いている先輩がいる。若いころ、記者の仕事、放送という仕事の「いろは」を教わってきた尊敬する人だ。先日、おずおずと聞いてみた。「リニューアルした報道ステーション、どうですか?」
「よくやっているじゃないか!」とまずはほっとする答え。ただ、やさしく注文がついた。
「うーん、衆院選より『松坂引退登板』がトップニュースっていうのにちょっと引っかかったというか…。やっぱりトップは選挙の方じゃないのかなって。個人的にあまりスポーツに関心がある方じゃないし、ほら、なにしろオレたちはNHKのOBだからさ。ニュースはオーソドックスであるべきだと思うんだよね」。
10月19日、衆議院選挙が公示され、候補者が出そろった。政権を選択する選挙なのだから国の一大事だ。間違いなく衆院選公示はトップニュース候補だ。しかしこの日の報道ステーションは、引退を表明していた西武の松坂大輔投手の最後のマウンドをトップに据える方針で臨んだ。そのニュース判断を下したこの日の責任デスクに僕は敬意を抱き、ならばしっかりと伝わるニュースにしたいと思った。
夕方、試合が行われる埼玉・所沢のメットライフドームに向かった。ファンの声を拾うとともに、自らスタンドに足を運び、球場の空気に触れるためだ。ロケの相棒となってくれた若いディレクターは、大学までハンドボールのゴールキーパーとして数々のシュートを阻止してきたスポーツ大好き女子だが、トップを飾る予定のニュース取材とあって心なしか緊張している。
試合前の球場周辺では良い取材ができた。西武球場前駅はホームのひとつを丸ごと松坂専用コーナーとし、停めた電車がちょっとした博物館に仕立ててある。ファンが感謝のメッセージを書いて電車の壁面に張り付ける工夫も面白かったし、何よりファンの心からの思いを聞けた。
「松坂のような選手になってほしい」と、子どもたちを連れてきた少年野球の指導者。
「この前は日本ハムの斎藤佑樹投手の引退登板をスタンドで見ました。きょうは松坂投手。感無量です」と語ってくれたのは、札幌から駆けつけた松坂投手の「親世代」の女性だ。
そろそろ試合開始だなと、スタンドに向かいかけたとき、ディレクターが「もう少し声を集めたいんです。私たちのような、松坂さんよりも年下の人たちが彼をどう見ていたのかを知りたくて」と言った。そしてお目当ての世代の女性に声をかけた。
小学校6年生の時に松坂にひと目ぼれしたというその女性は、「それまで運動が大の苦手だったのに、中学校からはソフトボール部に入ってがんばりました。人生がちょっと変わったかな」と言う。
なるほど、スターと呼ばれる選手にはそれだけの理由がある。人々の人生を照らし、影響を及ぼすことができるから。そのことに気づかせてくれるインタビューだった。
そのままスタンドに入る僕と別れ、ディレクターはもっとたくさんの声を集めたいからと、カメラクルーとともに東京の新橋に向かった。
41歳となった松坂の最後の登板をスタンドで見守った僕は、言葉が出なかった。
夏の甲子園で、今も語り継がれるPL学園との延長17回の完投勝利。西武のルーキーとして、あのイチロー選手から初対戦で三打席連続三振を奪った快投。メジャーリーグに渡り、レッドソックスでワールドシリーズを制した最高潮の日々。そしてケガとの戦いに明け暮れ、不本意だったに違いない帰国後の日々。いろいろなことが浮かぶ。
とにかくこの人にはマウンドがよく似合う。
振りかぶる。ケガに苦しめられた腕を懸命に振って投じた1球は、118キロのストレートだった。でもこの際、球速なんて関係ない。投げてくれるだけでいい。
3ボール1ストライクから投じた最後のボールは大きく外れ、四球。悔しそうな表情は全盛時のそれと変わらない。それでもチームメイトが駆け付けると、ほっとしたような笑顔に変わった。
放送時間が迫っている。
急いで局に戻り、さまざまな準備を整えて本番に臨んだ。自分が取材したVTR素材がしっかりと編集されてトップを飾っていた。その完成版VTRを本番のスタジオで見ながら、僕は若いディレクターが新橋までインタビューを撮りに向かった意味が分かった。そこには勤め帰りのサラリーマンが語る映像があった。
「37歳なんですが、松坂が甲子園で投げている姿を見てすごく感化された世代です。松坂世代ってすごい。自分がああなれるかというより、彼らの姿を見て、すごい選手じゃなくても社会でがんばろうと思える力はもらった。松坂は僕らのヒーロー。彼が引退しようがずっとヒーローです」。
ディレクターは「松坂世代」の意味を知りたかったのだと思った。記録だけでなく、何度も記憶に残るシーンを刻んだ松坂は、同学年の人たちの誇りだろう。「オレ、松坂世代なんだ」と誇らしく語る人は、野球好きもそうでない人も多い。松坂世代の人口たるや膨大なものだ。
サラリーマン氏が語るとおり、そうした誇りは少し下の世代にもジワリと広がり、生きる力となっていた。いや、松坂世代の親の世代も子どもの世代も、松坂というヒーローの姿を心の糧にしている人は少なくないはずだ。
それだけの人たちが心を揺さぶられる松坂の最後のマウンドは、時代を画すシーンでもある。衆院選公示という一大事を二番手に置いてでも、番組のトップを飾る理由はあったと思う。
トップニュースが衆院選公示でなかったことにやさしく苦言を呈してくれた先輩に、僕は松坂引退登板のニュースが持つ意味を電話で力説した。うまく伝えられたかどうかはわからないが、本当に心やさしいわが先輩は、「うん、気持ちは分かっている。これからも応援しているよ」と激励してくれた。そしていつもどおり、なごやかに会話は終了した。
すっきりした気持ちで散歩に出た。秋空にセイタカアワダチソウが映えていた。
(2021年10月23日)