「やっぱりお金というのは、額に汗して働いた結果だからこそ、貴重なものであってだな」と、さも当然の顔をして語る父親に対し、30代を越えたわが息子は、ハイボールのグラスなんぞを傾けながら、「それは確かにそう。でも、若い世代はそれだけでは立ち行かなくなっている」と生真面目に語った。「そうだ、『ドラゴン桜』でも読んでもみたら?読み応えのある漫画だよ」という勧めに従って、全21巻をネットで注文した。即決の、いわゆる「大人買い」である。
その翌日、愛犬が死んだ。
まるで僕の都合に合わせてくれたかのように息を引き取った。この週末は出張などの予定もなかったので、看取りもでき、火葬にも寄り添えた。長毛のチワワで、目の上に墨をつけたような眉毛がある。雌ではあるが、その風貌から、アニメのキャラクターそのままに「おじゃる」という名が付いた。
おじゃるは僕にとてもよくなついてくれた。僕がいると必ず脇にやってきて、ぴたりとくっついていた。顔を近づけるといつまでもペロペロとなめた。
おじゃるが旅立ったその日の午後、注文した「ドラゴン桜」が届いた。
悲しみに沈んでいてばかりでもしょうがないと、ページを開いた。ドラマ化もされた話題作だったことくらいは知っている。1巻目、2巻目と読み進んだ。面白い。作者の三田紀房さんの緻密な取材が光っている。
授業は荒れ放題。生徒も集まらなくなり、経営破綻寸前となったある私立高校が舞台である。主役は、この高校に送り込まれ、経営再建を任された弁護士だ。再建の切り札として、彼はこの高校に「特別進学クラス」を設け、わずか1年足らずの間に東京大学への合格者を出すことを約束する。授業についていくことなどとうに諦めていた生徒たちが、成り行きで特進クラスに編入される。その生徒たちを、あの手この手で合格ラインまで引っ張り上げていく・・・。
それだけだと、単なる根性物語のようにも見えるし、学歴偏重社会を無批判に肯定する感じもして、あまりスッキリとしない。しかし読み進むうちに、主人公によるいくつもの印象的な言葉に、カウンターを食らったような気分になる。
「俺らにはルールなんか要らねえんだよ」といきがる不良生徒に対し、「ルール無視するやつはプレーする資格はねえ 世の中からさっさと退場しろっ!」と主人公は一喝する。「そのルールが気に食わなくててめえの思い通りにしたかったら・・・自分でルール作る側にまわれっ!」とけしかける主人公は、そのための最も「確率の高い」チケットとして、東大に入るメリットを説く。なぜなら、「日本のルールは東大を出たやつが作っている」からだ。
もちろん、部分的にセリフを紹介してもすべて伝わるわけではないし、読む人によってどこが印象に残るかは異なる。わが息子がこの本を僕に勧めたのも、東大至上主義を追認せよ、という意味ではない。「ドラゴン桜」が息子たちの世代に浸透した(ちなみに週刊漫画誌での初出は2003年である)のは、敗残者となりたくなければ努力して果実をつかむしかない、という容赦ない時代背景がある。少なくとも僕にはそう思えた。
息子は「これからオレは勉強するし、資格も取る」と決意の面持ちだった。「額に汗して働くことが大事」と言う僕の言葉を否定するわけではなく、「オレは投資だってするよ」とさらりと言ってのける。「投資」という言葉だけでハラハラしてしまう僕と違い、賢く手元のお金を増やすことは、これからの時代は必須なのだと彼は言う。彼もまた薄給サラリーマンであり、投資に回すお金など乏しいにもかかわらず・・・。
参議院選挙が近い。各党の選挙公約も揃いつつあり、しっかり読み込んでおかなければならない。しかし、その前に「ドラゴン桜」全21巻を読み切ってしまおう。急がば回れ。多様な世代の価値観に触れておくこともまた、キャスターには求められる仕事なのである。
ところが、仕事モードに切り替えようと思った瞬間に、愛犬の顔が浮かんでしまう。
この30年、わが家にはいつも何匹かの小型犬がいた。息子たちの成長を見守り、至らぬところだらけの夫婦をサポートしてくれた。「おじゃる」がその最後の犬である。
息子は、「また新しい犬を飼えばいいじゃないか」と慰めてくれる。しかし、もう犬は飼わないと決めている。これから飼い始め、15年生きると仮定して、僕ら夫婦はともに70代半ばを超える。最後まで面倒を見ことができるかというと、その保障はない。
しばらくは引きずりそうだ。
でも、わが家には元気なネコが一匹いる。これからは一人っ子だ。思いきりネコかわいがりしてやろうと思う。
(2022年6月13日)