大学時代から名を馳せ、養成所を首席で卒業した、ナイチンゲールダンスの初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#25(前編)
2023年、ナイチンゲールダンスがついにメインストリートに躍り出た。大学お笑いで出会いコンビを組んだヤスと中野なかるてぃんが、今年『ツギクル芸人グランプリ』で優勝をかっさらい、『M-1グランプリ』では初めて準決勝に進出したのだ。
大学時代から名を馳せ、養成所を首席で卒業したエリートコンビがついに舞い上がるその直前に聞く、彼らの初舞台=First Stage───。
若手お笑い芸人インタビュー連載<First Stage>
注目の若手お笑い芸人が毎月登場する、インタビュー連載。「初舞台の日」をテーマに、当時の高揚や反省点、そこから得た学びを回想。そして、これから目指す自分の理想像を語ります。
俺はおもしろいのか?
左から:中野なかるてぃん、ヤス
──子供のころからお笑いは好きでしたか?
ヤス 僕はずっと好きでしたよ。でも、長崎出身で、お笑いの文化が全然ないんですよね。みんな『エンタの神様』(日本テレビ)とか観てるけど、それでドランクドラゴンさんの単独ライブに行けるわけじゃない。だから僕は、ビデオ屋さんに1本だけあったドランクドラゴンさんの単独ライブのDVDを繰り返し借りて、観てましたね。
──スタートはドランクドラゴンだった。
ヤス そうですね、そのとき『はねるのトびら』(フジテレビ)の全盛期だったので。
中野 僕も『はねトび』っすね。僕は山梨だったんで、ツタヤとかゲオで『はねトび』に出てたロバートさんとかインパルスさんとかのネタDVDを借りてました。そこでテレビのコントとかとは違う、「ネタ」っていうのに気づいて。あと、小学生のときは『お台場冒険王』に行ってました。秋山森乃進(コント『おじいちゃんといっしょ』でロバートの秋山竜次が演じていたキャラクター)と一緒にプリクラが撮れる機械があって、こないだそのとき撮ったプリクラが親から送られてきました。
ヤス キングコングの西野(亮廣)さんが『はねトび』のMCだったじゃないですか。僕の中では、西野さんって天才大御所MCだったんですよ。だから、『Mステ(ミュージックステーション)』(テレビ朝日)とか観ても、「なんで西野がMCじゃないんだよ!」って思ってたな。
中野 高校からはほかのお笑いも観るようになったんですけど、中学のときは『はねトび』だけだった。『オンバト(爆笑オンエアバトル)』(NHK)とかも観てなかった。
ヤス 『オンバト』の存在は知ってたけど、なんの番組かもわかってなかった。
中野 僕が高校生のころは『オンバト+』(2010年4月にリニューアル)で。でも深夜は親がテレビ観てることが多くて観られなかったですね。「オンバト観たいからチャンネル変えて」って言えるほどの熱はなかった。
──自分もお笑いをやってみたいと思うようになったのはいつですか?
中野 大学でお笑いサークルの存在を知ってからですね。高校のときはけっこう人気者のグループにいたんですけど、漫才やるみたいな文化がなくて。でもギャグはやってました。クラスのみんなの前でやるとウケるのが楽しくて。高校になると『あらびき団』(TBS)を観てるヤツが、そのネタをそのまんまやってウケるんですよ。僕はそれを知ってたけど、優しいから指摘しなかった。
ヤス 言わなかったんだ。
中野 「僕はオリジナルで闘ってるぞ」って、密かに思ってましたね。
ヤス 俺は高校の文化祭でMCのマネごとはしてましたけど、ネタ的なことは一切やってなかった。東京とか大阪だったら文化祭で漫才やるみたいなこともあったんでしょうけど。だから、高校時代は「俺、絶対おもしろいよな」っていう気持ちはありつつ、「本当に俺はおもしろいのか?」っていう不安もあって。ネタ番組とか観ていろいろケチつけたりはするんだけど、一方で「じゃあお前はできんのか?」っていう。
神に認められた男
──おふたりとも大学でお笑いサークルに入ったそうですが、そのときは「プロの芸人になるぞ!」っていう感じだったんですか?
ヤス 全然。普通のノリでしたね。
中野 僕もです。サッカーサークルと兼サーでしたし。
──「大学お笑いはサムい」という価値観があった時代もあると思うんですけど、おふたりが大学生活を過ごした2010年代半ばは、そういう見方はなかったですか。
ヤス どうなんだろう、わかんないっすね。たしかに昔はでっかい大会もないし、大人が絡んでなかったから、しょうもないって思われてたのかもしれないけど。
中野 「お笑いサークルっていいよね」っていう人が増えたのは、ラランド以降だと思いますね。ラランドは僕らの一個下なんですけど。
──大学お笑いで活躍し、アマチュアで『M-1』2019の準決勝まで行ったラランドはスターでしたね。ところで、おふたりは別の学校だったんですよね。ふたりの初舞台は別々だった?
ヤス そうですね。お互いそれぞれのサークルでのネタ見せが初舞台になりますね。僕が日大(日本大学)の「経商法落語研究会」ってとこで、なかるてぃんが一橋大学の「IOK」。で、俺は初めてのネタ見せでめちゃくちゃウケたんですよ。あれはうれしかったっすね。「ほら見ろよ! やっぱ俺おもしれぇじゃん!」って。マジで2日寝られなかったです、アドレナリン出すぎて。あのときのウケ量が頭にこびりついて、寝られなかったですね。
──ネタは自分で書いた?
ヤス そうっすね。それでツッコミやってました。それも不思議なんですよね。高校生までは自分がフザケて笑いを取る感じだったからボケでいいはずなのに、なんかツッコミやってました。ネタはそのときの相方が高校時代にアナウンスの賞をもらったとかいう経歴を活かして、ニュース番組を読み上げてもらって、それに俺がツッコむみたいな。
──ちゃんと相方のニンをつかんだネタですね。
ヤス ねぇ。今思うとしっかりしてましたね。そいつとはその一回きりでしたけど。
──サークルのネタ見せって先輩が「新入生のお手並み拝見」って怖い雰囲気を出すものですか。
ヤス いや、全然。普通にみんな仲いい感じでしたよ。
中野 日大はキャンパスごとに何種類かお笑いサークルがあったんですけど、ヤスさんのところは、オラオラしてるヤスさんが入ってから怖くなったんですよ。
ヤス オラついてましたね。ほかの大学のサークルにスパイとか送り込んでたんで。
中野 自分たちの勢力を大きくするために(笑)。
──中野さんはどうでしたか?
中野 僕も最初のネタ見せはウケましたね。当時、4年生にさすらいラビーの中田(和伸)さんがいて、僕らの漫才をめっちゃ褒めてくれたんです。当時、サークルで中田さんってマジで神みたいな扱いされてたんで、僕も「神に認められた男」みたいな感じで(笑)。
──どんなネタだったんですか。
中野 「オリジナルの神話を考えてきた」っていうネタでした。僕が書いたんですけど、「タルファネス」とか「ペンガソッスス」みたいな名前のヤツらが出てくる神話で、それを僕が説明して相方にリアクションしてもらうっていう。伏線回収とかもしてましたね。
めちゃめちゃフザけた初舞台
──日大と一橋のお笑いサークルにいて、どうやってふたりは出会ったんでしょうか。
ヤス 僕が2年のとき、青山学院大学と一橋大学のバトルライブに潜入したんですよ。そしたら、すごく声が高い1年生がいておもしろかったんで、「コンビ組んでみようよ」って速攻誘って。それこそ神話のネタやってたよ。
中野 一回もしゃべったことないヤスさんから突然「一回ネタ合わせしよう」ってDMが来て。
ヤス ネタ合わせなんかしてないだろ。「一回集まろう」って感じじゃない?
中野 いや、「ネタ合わせしよう」って言われたんですよ。それで新宿駅の東口で待ってたら、ヤスさんが現れて「ちょっとルミネ行こう」って言われて。僕、「ルミネtheよしもとでも行くのかな?」と思ってたのに、その一個下の階のタケオキクチにヤスさんが入って、店員さんに「明日デートなんで、3万でバチクソかっこいい服ください」って頼んで。僕、ヤスさんが服選んでるのを見てたんですよ。
ヤス そうそうそう。で、帰った。
──不可解な行動ですね。
ヤス いや、普通に後輩に買い物付き合ってもらったっていう感じですよ。なんかコミュニケーション取ろうとしたんじゃないですか。
──中野さん的には、いきなりDMをもらって組むのはためらわなかったですか。
中野 ヤスさんの存在は知ってたんですよ。今、太鵬ってコンビのさがえ(がえちゃん)さんと、歌うだけのネタをやってて。
ヤス ラリアットカンガルーペロンペロンっていうコンビです。
中野 で、ヤスさんとさがえさんは、みんなが一生懸命漫才してる大会で、歌ネタで決勝まで行ってたんですごいなって思ってました。僕もまだ1年生でけっこうヒマだったんで、組んでみましょうって感じでしたね。
ヤス お笑いサークルは何組もコンビ組むのがけっこう当たり前だからな。
──ナイチンゲールダンスの初舞台は覚えていますか。
中野 なんかの学園祭でしたよね。和光大学かどこかの。
ヤス あれが初めてだっけ? 和光大学の文化祭実行委員に僕たちの日大経商法落語研究会が呼ばれたのが、なかるてぃんと初めての舞台だ。暗めの教室でやりました。
──どれくらい人は集まるんですか。
ヤス 20人いないくらいですね。でもウケました。めっちゃフザケてネタ作ったんですけど、これでもウケるんだって思いましたね。同じネタを早稲田大学放送研究会がやってた『大学生M-1グランプリ』の動画審査に送ったら通って、決勝大会に行ったんですよ。「ナイチンゲールダンスです」って言い始めたのはそこからです。
──どんなネタだったんですか。
ヤス ペニシリンを探すみたいな。
中野 あぁ、そうだ。ペニシリンを開発した人の前に、ペニシリンみたいな人が出てきて、「ペニシリンじゃない!」みたいな……。
ヤス そういうネタでしたね。
中野 たぶん、日曜劇場『JIN−仁−』(TBS)と同じです。
ルミネで聞いた爆笑が一生を決めた
──どのタイミングで、ふたりでプロでやっていこうって決めたんですか。
ヤス 大学お笑いである程度結果を出したからですかね。『大学生M-1グランプリ』も2015年に優勝したりしたんで。僕はナイチンゲールダンスと、さがえと組んでたラリアットカンガルーペロンペロンのどっちでプロに行こうか迷ってたんですよ。でもさがえとのほうは大学お笑いだから盛り上がってるだけと思って、なかるてぃんとやろうと。
──中野さんの実家は医者の家系で、ご自身は弁護士になりたくて一橋の法学部に入ったそうですが、芸人になることに躊躇(ちゅうちょ)はなかったですか?
中野 僕が2年生のときに吉本主催の『NOROSHI』っていう大会が始まって、そこで決勝に行って。そのときルミネでネタやったのがかなり気持ちよくて、芸人なりたいなってそのあたりでもう思ってたんですよ。
ヤス ルミネの舞台で爆笑聞いたら、引き返すのは無理だよ。
中野 それで、ヤスさんに「親に『お笑いやりたい』ってジャブ入れとけ」って言われて。そこから徐々に親を納得させましたね。
ヤス 大学お笑いは、親を4年間かけて説得できるのがでかいよね。
中野 結果で示せるし。
──NOROSHIは吉本興業のリクルートとして機能してたんですね。
ヤス ちょうどタイミングもよかったんですよね。僕らが3〜4年生になったころに、吉本が大学お笑いに近づいて。いつかルミネに立てるんだって思えたのは、でかいですね。
中野 準優勝させてもらったとき、エンディングでも「吉本行きたいです」って言ってたら、MCのジャルジャルさんとか、ゲストのBKB(バイク川崎バイク)さん、プラス・マイナスさんから裏で「吉本来るんやな。一緒にがんばろう」って言ってもらえて、それはうれしかったですね。でも、準優勝の特典がなかったのは納得いってないです!
ヤス 今思えば、そんな甘くないってわかるけど、当時は入れてくれるだろって思ってたよな。
中野 NOROSHIって優勝するとNSCの授業料免除なのに、準優勝は一円も安くならないんですよ。そのとき優勝したチームは誰も芸人にならなかったんだし、その分余ってるじゃないですか!
ヤス でも、今は普通に吉本来てよかったなって思ってます。吉本の芸人って、みんなそう言ってるんで。
──なんで吉本でよかったと思えるんですか?
ヤス 単純に舞台の数とギャラですね。この芸歴でNGK(なんばグランド花月)本公演のトップバッターまでさせてもらってますから。ホントありがたいっすよ。
文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平、田島太陽
ナイチンゲールダンス
ヤス(1993年5月27日、長崎県出身)と中野なかるてぃん(1994年8月28日、山梨県出身)のコンビ。大学時代、『大学生M-1グランプリ2015』で優勝。2016年にNSC東京に22期生として入学し、首席で卒業。2023年には『ツギクル芸人グランプリ』優勝、M-1では初めて準決勝に進出した。YouTubeチャンネル『ナイチンゲールダンスチャンネル』でネタや企画動画もアップしている。
【前編アザーカット】
【インタビュー後編】
賞レースで躍進するナイチンゲールダンスが目指すのは“王道の漫才”|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#25(後編)