“すこしふしぎ”なコンビ・人間横丁の初舞台は賞レース|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#24(前編)
芸歴3年目の男女コンビ・人間横丁。内田紅多と山田蒼士朗は、ふたりにしか醸し出せない、親密で柔らかなムードと、藤子・F・不二雄的な“すこしふしぎ”なネタで、注目を集める。
コロナ禍の始まりとともに芸人になったふたりは、どんな道を歩んで、その世界に足を踏み入れたのか。
漫才のニュースタイルを切り開こうとする人間横丁のふたりが芸人となった、初舞台の思い出を聞く。
若手お笑い芸人インタビュー連載<First Stage>
注目の若手お笑い芸人が毎月登場する、インタビュー連載。「初舞台の日」をテーマに、当時の高揚や反省点、そこから得た学びを回想。そして、これから目指す自分の理想像を語ります。
ワクワクさせてくれるお笑いが好きだった
上から:山田蒼士朗、内田紅多
──内田さんは芸人やお笑いに全然興味なかったそうですね。
内田 テレビもあんま観てなくて。お笑いを好きになったのは大学からです。
──子供のころは何が好きでしたか?
内田 4人きょうだいなんですけど、ずっとゲームやってて。4人でゲームキューブの『マリオカート』とかやってました。本当にゲーム三昧。でも、プレステは大人っぽいイメージだったので、ニンテンドーばっかりでしたね。
──ほかのことには興味がなかった?
内田 そうですね……でも、妹がテレビ好きで『ピカルの定理』(フジテレビ)とかはなんとなく観てました。妹がいつも流行を追いかけてたおかげで、私も友達の話題についていけてた。
──妹は女優の内田紅甘(うちだ・ぐあま)さんですね。紅甘さんは子役のころから演技の世界にいます。内田さんはそっちに興味は持たなかったんですか?
内田 被ることしたくないなぁってずっと思っていました。同じことをやってたら絶対比べられちゃう。妹は演技上手で、かっこいいんですよ。きょうだいと同じことしたら比較されるから避けてきました。
──なるほど。大学では映像制作やWEBデザインを学んだそうですね。
内田 画面の中のことをずっとやっていましたね。卒業したらゲームプランナーになるのもいいなぁと思って、目指してる時期もありました。でも、大学時代にバラエティ番組を観るようになったんですよ。『有田ジェネレーション』(TBS)が好きでよく観てました。知らない芸人さんがたくさん観れてうれしくて。
──そもそも全然興味のなかったお笑いにハマったきっかけは、なんだったんですか?
内田 これはちょっと恥ずかしいんですけど、当時ピスタチオさんがね、めっちゃブレイクしてたんです……。テレビで初めて観て衝撃を受けて。それでメディア情報を追っかけ出したら、ヨシモト∞ホールの配信があるのを知って。それを観ているうちに、好きな人が増えてお笑いにハマりました。それで、就活の時期にゲームプランナーか芸人で迷ったんです。
──それで芸人を選んだ?
内田 いや、どっちも素敵だな〜となったけど、友達に話したら「就職したほうがいいと思うよ」って言ってくれたんです。普通そういうときって「好きなことやりなよ!」って無責任に背中を押すじゃないですか。でも、その子は「働いたほうがいい」と。それがすごい衝撃で。たしかにそうだなぁって就活することにしたんです。でも結局3社くらいしか受けなくて全部落ちちゃって。
どうしようかなって思ったんですけど、絵を描くのが好きだったから、フリーターしながら絵でも描いてそれがいつかお仕事になったら楽しいかなって。バイトしている間もお笑いは変わらず好きで、半年くらい経ったときに「やっぱり養成所入ろう!」と思ったんです。
──きっかけがあったんですか。
内田 ちょうどそのころサツマカワ(RPG)さんを好きになって。「こんなお笑いあるんだ!」って衝撃を受けたんです。同時に、自分の好きなお笑いのジャンルが明確にわかった感じがあって。自分の好みがちゃんとわかっているなら、自分でもやれるかもと思って芸人になることにしました。
それですぐバイトも辞めたんです。店長がダジャレばっかり言う人で、この人と一緒にいたらおもしろくなくなっちゃうって心配になって辞めました。全然悪い人じゃなかったんだけど(笑)。
──内田さんをお笑いに導いたピスタチオもサツマカワさんも正統派というよりは、我が道を行くタイプですね。
内田 たしかに今思うとそうかもしれない。正統派と呼ばれる方よりもそっちのほうが好みなのかな。基本的にワクワクすることが好きで。「何してくれるんだろう!」って思わせてくれる人が好きなんです。
ブラマヨと天竺鼠が好きだった山田くん
──山田さんはいつからお笑いに興味を持ったんですか。
山田 物心ついた3〜4歳ぐらいのときには、もうお笑い番組を観てました。
──1999年生まれですよね。
山田 そうです。だからM-1がずっと記憶に残ってて。ブラックマヨネーズさんが最初に好きになりました。
──ブラックマヨネーズの優勝は2005年でした。6歳のときですね。
山田 保育園の卒園式で夢を発表するときは「お笑い芸人になります」って泣きながら言いました。
内田 なんで泣いちゃったの?
山田 寂しいのと、恥ずかしいのがあったんだと思う。僕が泣いてるのを見て、親が全員泣いたって言ってました。いつも笑ってて、友達のお父さんお母さんにもニコニコ話しかけてたから、そんな子が泣いてみんなも驚いたのかな。
内田 ずっと笑ってたんだ、今と変わらないね。
山田 へへへへへ(笑)。
──どんなお子さんだったんですか。
山田 人を笑わせるのもずっと好きでした。小学校のときはお楽しみ会で出し物を考えてやったり、学童ではコンビを組んでネタをやったり。落語家の方が来て、前座で出たんです。
内田 どんなネタやったの?
山田 8月でこんなに暑いなら、12月はもっと暑いよね、みたいな。数が増えるとどんどん暑くなるみたいなネタだったかな。『コロコロコミック』でやってた『スーパーマリオくん』でペーパーマリオ編みたいなのがあって、それで漫才やってたんです。それをちょっとマネたような気がします。
──幼少期を過ぎて、そのあともお笑いへの熱は上がる一方でしたか。
山田 中学でバスケをして、高校の写真部に入って、お笑いからちょっと興味が離れちゃったんですよ。みんなが観るようなバラエティ番組は観てたけど。初めてお笑いライブに行ったのも、働き始めてからです。
──山田さんは社会人経験があるんですよね。
山田 はい、高校卒業してから2年間介護士をしていました。デスクワークは絶対やりたくないなぁと思って、給料がいいところ探したら介護かなぁって。中学校のときバスケやってたりで体力はあったし、おじいちゃんおばあちゃん好きだったので。
──大学に行くとか、写真の勉強することは考えなかった?
山田 一瞬よぎったりしましたけど、でももう何も学びたくなくて(笑)。保育士にもなりたかったけど学校行くのがイヤですぐ働きました。それで働いているときに、またお笑いを観るようになって。当時は天竺鼠さんが好きでした。一度ライブを観に行こうと思って、同期の子と一緒にルミネの平日昼公演に行って。その帰りにはやっぱりあっち側に行きたいと思いました。
──お笑いファンに戻るのではなく、芸人になろうと思ったんですね。
山田 そうですね。でも、僕は飽きやすい性格なので、この気持ちが続いたらやろうと思って1年は待ちました。その間にもいろいろお笑いライブは行ってて、吉本以外にもK-PROのライブにもいろいろ行って。1年後も全然気持ちが落ちていなかったので、養成所に入ることにしました。
──なぜ人力舎を選んだんですか。
山田 最初はやっぱり吉本かなと思ってたんです。でも、怖そうだった……(笑)。人力舎は怖くなさそうだったので、ここにしました。最初はコントやりたかったのもあったので、コント師が多いのもいいなと思って。
コンビ結成は即決「私がそのまま男の人になったみたい!」
──そして2020年にふたりは出会うわけですが、コロナが始まったばかりのころの養成所の雰囲気はどうでしたか。
内田 そのときはもう入学式もなくて。
山田 スタートも1カ月遅れたよね。
内田 講師のあいさつもYouTubeの限定公開動画を観といてください、みたいな。
山田 自己紹介もZoomで、1カ月はリモート授業でした。
──じゃあ最初はZoomで会った?
内田 私と山田くんは違うクラスだったので、そういうわけでもなくて。
山田 僕が内田さんの自己紹介の動画を観て、「この人とやるなぁ」ってピーンときたんです。でもすぐには勇気が出なくて、4日悩んでメールを送りました。
内田 そのメールも変だったよね(笑)。「名前が赤と青でよくないですか?」って。私が「紅多」で山田くんが「蒼士朗」だから。
──いきなりそれは怖いですね(笑)。
山田 すごくね、悩んじゃって。ぐるぐるしすぎちゃいましたね。
内田 私も「うわ、ちょっとおバカな子から来ちゃったなぁ」って思って悩んだんですけど、まぁ電話くらいいいかって。しかもちょうどそのときに最初にお試しで組んでいた人と解散したところだったので。
山田 グミ、たくさん食べられちゃったんだよね?
内田 そうなの。たしかに「食べていいよ〜」って言ったけど6個も食べて。それは違うよなぁって解散しました。
──山田さんの第一印象は「ちょっとおバカな子」だったわけですが、実際に電話してみてどうでしたか?
内田 なんかいいなぁってすぐ思いました。私がそのまま男の人になったみたいだと思って。ずっとニコニコしてるし、ゆっくり話すし、落ち着くなぁって。私はまずはいろんな人と組んでみるつもりだったから、すぐ組むことにしました。
──そして人間横丁が生まれた。
山田 最初、内田さんが組む前に書いたネタを見せてもらって、これはすごいぞ……ってなったんですよね、へへへへ(笑)。
内田 そうなんだぁ、初耳。私は養成所に入る前からネタを書いてたんですよね。
山田 テーマが近かったりしたんだよね。僕たちSFとかが好きだから。
内田 私が「実は火星人だった〜」みたいなネタだったね。それで私たちは組むのが早かったから、その年のキングオブコントの予選に出られたんですよ。
キングオブコント予選で「どこの子なの?」と聞かれる
──じゃあお客さんの前に出た初舞台はキングオブコントの1回戦ですか。漫才ではなくコントだったんですね。
山田 そうですね、僕の誕生日でした。
内田 そうだ、そうだ。
──芸人としての初舞台が誕生日ってすごいですね。芸人として生まれ直したというか……。
山田 すごい、いい表現ですねぇ(笑)。
──初の賞レース予選はどうでしたか。
山田 コロナ禍に入って初めてだったので、並ぶときも距離を開けなきゃいけなくて。外で待機するのもダメで、時間ぴったりに来て会場に入って。
内田 そしたらすぐ私たちの名前が呼ばれて、「うわーっ!」って慌てて。
山田 急いで着替えて……。
内田 めちゃめちゃ怖かったです。マスクもギリギリまでつけてなくちゃいけないのに、衣装にポケットもないからどうしよ〜って焦ったりして、けっこう泣いちゃいそうでした。
──会場入りしてすぐ出番となると、雰囲気もつかめなくて緊張しそうです。
内田 そうですねぇ。私たちのうしろに並んでたのが、なんかおじいさんで……。
山田 コントD51さんだよ。
内田 そのすごいおじいちゃんが「どこの子なの?」って話しかけてくれて。自分たちでこの大会の最高年齢だって言ってたんです。その人が穏やかだったから、それで泣かずに済んだかも(笑)。
──緊張もほぐれて本番はどうでしたか?
内田 練習のときは、もしかしたらブザー鳴っちゃうくらいの尺だったんですけど、全然鳴らなくて。むしろ一瞬で終わりました。自分でも最後のくだり話しながら「もう終わりっ!?」と思うくらい。
山田 緊張して早口になっちゃったね。
──どんなネタをやったんですか?
内田 山田くんが400年のコールドスリープから覚めて、不動産屋さんに行くネタです。でも人口が減りすぎて各都道府県にひとりずつ住んでるっていう。養成所で「ウケないのが普通だから」ってハードルを下げてもらってたので、ウケないのは全然平気でした。でも、よく賞レースとかお笑いライブに来られる有名なお笑いファンの方がいて、その方だけ最後のくだりで笑ってくれましたね。
──「ピンクおばさん」ですかね。
山田 たぶんそう……でも、僕たちはそのときそのおばさんが有名だって知らなかったから、もしかしたら違う人かもしれません。
──でも、おふたりとも緊張しないイメージがあったので意外でした。さすがに初舞台は緊張した?
内田 私はわりといつも緊張してます。山田くんはあんまり緊張しないよね?
山田 大事なときとか初めてのときは緊張するけど、それ以降はあんまり。キングオブコントはやっぱりドキドキしました。
──初舞台を終えたあとの帰り道とか覚えてますか?
山田 始まる前に「終わったら誕生日会しようね」と言ってたので、祝ってもらいました。
内田 コメダ珈琲でねぇ。
──そこは内田さんがごちそうして……。
山田 おごってもらってはないです(笑)。それぞれ好きなものを頼んでね。
内田 そうだったねぇ。
文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平、田島太陽
人間横丁(にんげんよこちょう)
山田蒼士朗(やまだ・そうしろう、1999年7月23日、東京都出身)と内田紅多 (うちだ・べえた、1997年3月15日、東京都出身)のコンビ。人力舎の養成所であるスクールJCA29期生、2020年結成。YouTubeチャンネル『人間横丁のにんげんよこちゅ〜る』は不定期更新中。活動情報はXのアカウント@ningen_yokochoでチェックできる。
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【前編アザーカット】
【インタビュー後編】