ザ・マミィ「お笑いの世界は結果がすべて」と知った初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#3(前編)
ザ・マミィのコントには、変人ばかり出てくる。そんな変わり者どもに向ける彼らの眼差しは優しい。先日行われた単独ライブのタイトルは『すごく、生きてる』。懸命に生きている人を肯定する彼らのルーツはどこにあるのだろうか。
結成3年目にして『キングオブコント』は2年連続セミファイナル進出。今注目のザ・マミィが、彼らの前日譚と、ファーストステージについて語る。
「若手お笑い芸人インタビュー連載 <First Stage>」
注目の若手お笑い芸人が毎月登場する、インタビュー連載。「初舞台の日」をテーマに、当時の高揚や反省点、そこから得た学びを回想。そして、これから目指す自分の理想像を語ります。
ラジオだけが居場所だった大学時代
酒井貴士
──まず、おふたりの学生時代のことを聞きたいです。酒井さんは転校を繰り返されたり、林田さんは中退したそうですが、その挫折がザ・マミィのコントにも反映されているのかなと思いまして。
林田 たしかにそれはあるかもしれないですね。居場所がないとか、人の目が気になるっていうのはずっとありました。僕は大学でその自意識のバランスが崩れちゃったんです。僕、ラジオが好きでハガキ職人もしてたんですけど、教室で大声でしゃべる人たちを勝手に敵視してて。「おもしろくない話を得意げにしゃべる人とは絶対仲よくならないぞ」みたいな感じでした。
酒井 そりゃラジオの人と比べちゃったら大学生に酷だよ。
林田 今思うとね(笑)。自意識が強すぎて、まわりの子とうまく話せなかった。「自分はほかの人と違うぞ」と信じながらも孤独でした。結局、まともに通えないまま、大学4年のときに逃げ出しました。
──ハガキ職人だったんですね。
林田 どこにも居場所はなかったけど、ラジオにネタを送って読まれると「ここに居場所がある。俺はここにいていいんだ!」って思えたんです。おぎやはぎさんがラジオネームを呼んでくれるのが、ほんとにうれしかったですね。お笑いがなかったら、ずっと暗闇にいたかもしれないです。
林田洋平
──ずっと芸人になりたかったんですか?
林田 憧れはあったんですけど、同時に芸人さんは雲の上の存在だと思ってましたね。お笑い芸人という職業が現実的になったのは、大学時代に「ラヂオつくば」でバイトしたとき。そこで番組をやっているオスペンギンさんに出会って、芸人さんはテレビの向こうの存在じゃなく、リアルに生きているんだと実感したんです。それで、自分も芸人やってみていいんじゃないかなと。
──ハガキ職人だと放送作家など裏方になる人も多い印象ですが、表に出るほうを選ばれたんですね。
林田 大学時代にグチャっとなって忘れかけてましたけど、もともと目立ちたがり屋なんです。クラスで冗談も言うタイプで、明るい性格でした。ただ、自分から前に出るのではなく、担ぎ上げられるのを待つタイプ。押されて押されて「仕方ねえな」ってテイで前に出ていくズルい感じですね(笑)。
「運動神経悪い芸人」に救われたんです
──酒井さんはどんな学生時代を過ごされていましたか。
酒井 僕、とにかく運動ができないんですよ。でも、学生時代ってスポーツできないと話にならないじゃないですか。モテないし友達もできない。小学生まではよかったんです。でも、中学では運動神経が悪すぎて浮いてしまった。授業中も先生に「ふざけるな」と怒られるくらい、運動ができなかったんですよ。
僕は足手まといだからサッカーの試合に出してもらえず、ひとり壁当てして。たまに出してもらっても、キーパーをやらされる。で、これは笑って聞いてほしいんですけど、あるとき「ゴール前に横たわってろ」って言われて、僕はシュートを体で弾く器具になったんです。
林田 ……いや、やっぱり何度聞いても笑いづらいよ(苦笑)。
酒井 でもね、ボールを当てられてみんなに笑われて、僕は「ウケてる!」と思ったんだよ。今思えば、それはいじめに近かったし、もちろんつらかったけど、同時にお笑い好きだった当時の僕は、笑われるのが快感でもあって。ただ、高校時代もスポーツには悩まされて、それが原因で2回転校しました。
──高校で転校を繰り返すって珍しいですよね。
酒井 最初に入学した高校でも相変わらず体育の時間がキツかったんです。球技で足を引っ張らないように審判に回ったら、サボってると誤解されて先生に怒られたりして。どうすればいいんだろうって考えて、僕のことを理解している小学生時代の友達がいる学校に転校しました。
──どうしてその高校も辞めちゃったんですか?
酒井 これは完全に転校の仕組みを知らなかった僕が悪いんですけど、一度学校を辞めて入り直したら、また1年生からやり直すんですよ。それで同級生とは学年がズレちゃった。1個下の子たちとの学校生活もなじめずそこも辞めました。最終的には通信制の高校でヨガで体育の単位を取って卒業しましたね。
──ずっとスポーツで苦しんできたんですね……。
酒井 でも、時を経て去年『アメトーーク!』(テレビ朝日)の「運動神経悪い芸人」に出演して、芸人になって一番反響があったんです。学校ではハブられる短所を、笑える長所に変えてしまうお笑いっていいなぁと改めて実感しましたね。「運動神経悪い芸人」には救われましたよ。ごめんなさいね、話長くて。僕、長いんです!
林田 話したいように話していいんだよ。
酒井 そうか、編集のプロにお話聞いてもらってるんですもんね。なんとかよろしくお願いしますね(笑)。
初舞台でウケる人はいない
──厳しい学生時代をくぐり抜けて、おふたりは人力舎の養成所「スクールJCA」の24期生(2015年入学)として出会ったんですね。
林田 最初は別々のコンビでしたけどね。当時の酒井ってとにかく怖いイメージだったんですよ。今よりずっと痩せて、眼光も鋭かった。
酒井 痩せてたのは元カノを引きずってたからなんですよ。「芸人になる」って伝えたら「私と芸人どっちがいいの?」って聞かれちゃったんです。結婚したかったので「僕は芸人で君を幸せにするよ」って答えたら、納得してもらえずフラれちゃって……。
林田 失恋で痩せて落ち込んでたんだ(笑)。
酒井 そうです。で、暗いから誰もコンビ組んでくれなくて、結局同じように余ってた不登校気味の人と組みました。彼は「蒲田の爆笑王」を自称する変わった人だったんですけど、あるとき胸に入った信楽焼のタヌキの刺青を見せてくれたんですね。ニコーって笑ったタヌキをよく見ると、両手にひょうたんを持ってて、それぞれに「笑」と「愛」って字が書いてある。「俺、お笑い愛してるんですよ!」って言う彼のまっすぐな瞳が怖くなっちゃって、すぐ解散しました。
──酒井さんの初舞台は「蒲田の爆笑王」と?
酒井 そうですね。今はコントやってますけど、そのときは漫才をやってて、初舞台はM-1の1回戦でした。実は養成所のネタ見せではけっこうウケて、先生も「君たちはエースだ」って褒めてくれて調子に乗ってましたね。
でも、M-1の1回戦は緊張して足がガクガク震えたし、ちんちんにスベりましたよ。ほんとは漫才やりたくてこの世界に入ったんですけど、M-1の1回戦で自分には才能がないなと思って漫才は諦めました。
──林田さんの初舞台はいかがでしたか?
林田 酒井の話聞いて思い出しましたけど、僕も初舞台はキングオブコント(以下、KOC)だったかもしれないです。でもほとんど当時の記憶はないんですよ。めちゃくちゃスベったんで、本能的に思い出から消そうとしてるんでしょうね。
酒井 人生初の舞台でウケる人っていないんじゃないですかね。
トリオ時代の栄光と挫折
──おふたりはザ・マミィ以前に、卯月というトリオを組んでいました。卯月で初めて舞台に上がったときのことは覚えていますか?
林田 たぶん、2016年1月の養成所ライブですね。入学した年の9月から毎月養成所ライブがあるんですけど、結成はたぶん12月で、その翌月です。
JCAは4月までに人力舎のマネージャーに気に入られないと所属できないんですよ。あと3カ月というタイミングで1からのスタートだったので焦りましたね。
──リミットがあるんですね。
酒井 そうなんですよ。しかもライブで毎回順位が決まるんですけど、3位以内はもう不動なんです。内容はアレなんですけど……。
林田 テンポのいい漫才(笑)。まぁ今になって思えばってことですけど。
酒井 漫才の人たちって「コントなんかに負けらんないよ」って感じなんですよ。コントをなめてるというかね。まあ養成所入ったときの僕も漫才師気取りで、コントなめてる側だったんですけど(笑)。ただ、僕らは初舞台でぶっちぎり優勝したんですよ。
林田 ぶっちぎりではなかったよ(苦笑)。
酒井 圧倒的でしたよ。あっちの漫才3組はアマチュアの笑いだけど、こっちはすでにプロのお笑いをやってましたから、はっはっは(笑)。
林田 それは言いすぎだよ! でも、コンビでダメだった連中が、トリオになったところで、うまくいくわけないと言われてたので、初ライブで1位はけっこう驚かれましたね。
酒井 優勝したら先生たちも手のひら返して「君たちはドリームチームだよ! 金の卵だ!」って(笑)。
林田 金の卵って言われるグループが毎年何組かいるんです(笑)。ただ、評価があっという間に覆るのを肌で感じて、お笑いの世界はシンプルに“結果がすべて”なんだと知りましたね。これはザ・マミィになってからも思うことなんですけど。
酒井 そのまま人力舎に所属させてもらって安心したけど、当時調子のよかったネタをKOCに持っていったらそこはやっぱり厳しかったね。
林田 スベったわけじゃないけど、単純に下手というか、雑だったんだろうね。
──しかし2年目にはセミファイナルまで行って、一気に若手の注目株になりました。
林田 当時『新人内さまライブ』っていう出演するだけで若手にとってステータスになるライブがあって、そこで優勝した『募金』というネタが準決勝まで連れていってくれました。そのネタでKOCは準決勝に行き、『東京03寄席』も出させてもらって……。
──若手の有望株として注目されていたのに、翌年トリオは解散します。
林田 そうですね。けっこういいネタができてたし、前年とは違ってちゃんと2本あったので、今年はひょっとしていい線行くんじゃないかという期待はたしかにあったんですけど、同時にトリオ間で問題が山積みになってしまって。このままいい線行ってしまったら、続けなくちゃいけなくなると思って、準々決勝の前に解散したんです。
ザ・マミィ号泣事件(with ゾフィー上田航平)
──解散後、おふたりが再び合流した経緯を教えてください。
林田 解散のときは今後のことも考えられなかったんですけど、やっぱりまた酒井とやりたいなと思ったんです。でも、ふたりきりで話すことってほとんどなかったから気まずいだろうなと思い、僕らをずっと心配してくれてたゾフィーの上田さんに同席してもらって。
酒井 でも結局、林田は自分で告白せずに、僕に告白させるんです。ズルい男ですよ。
林田 だって、酒井の気持ちがまったくわからなかったから……。「俺は酒井と組みたい」って言おうとすると、ガクガク震えるくらい怖かったんですよ。そんな僕を見て上田さんが「酒井はどうしたいの?」って水を向けてくれたから、「このまま酒井に言わせちゃおう」と、方針転換して(笑)。
酒井 僕は僕で、先のことがまったく考えられなくて、林田と組むとか組まないどころじゃなかった。解散してからほとんど寝れなくなって、起きてる間はずっと酔っ払ってました。全部忘れたかったんです。今年こそKOC決勝行けたんじゃないか、期待してくれてた人を裏切ったんじゃないか、これからどうするんだ……と考えるとつらくて、シラフじゃいられない。解散の後悔とこれからの不安に押し潰されそうでした。
林田 廃人みたいだったね。
酒井 そんなときに林田と上田さんと会ってようやくこの先のことを考えましたね。そこでやっぱりコントやりたいなと。コントやるなら、林田は同じタイミングでひとりになったわけだし、組むには手っ取り早い。だから「一緒にやりたいな」って言ったら、林田が「その言葉聞けるか、ずっと不安だったんだよ」って泣き始めて(笑)。
林田 僕の前に酒井さんもすでにボロボロ泣いてましたよ!
酒井 いやいや、僕は林田の涙につられて、自分のコントへの熱い想いに気づき、きれいなひと筋の涙を流しただけです。
林田 廃人の濁流みたいなベトベトした涙だったよ。でも、僕らの泣いてる姿を見て、上田さんが一番泣いてくれたんだよな。
酒井 男3人で泣きましたよ。傍から見たら気持ち悪い光景ですよね。
──まさにコントのような光景ですね(笑)。ザ・マミィとしてのファーストステージはいかがでしたか?
酒井 ふたりとも暇だったし、すぐネタ作って持っていきました。2018年9月3日の事務所ライブですね。
林田 卯月を解散してまだ2カ月なかった。でも、卯月時代から観てくれてるお客さんばかりなので、やっぱり変な雰囲気で……。お客さんとの距離は感じましたね。トリオ時代の解散がきれいなかたちではなかったというのもあるんですよ。
酒井 僕らが一方的に事情を話すわけにもいかなかったし。トリオを解散してコンビとして復活したんですけど、ひとり追い出したように見えると思うんで、引かれるのも無理ないんです。コンビ名を発表したときも「シーン」としちゃってね。卯月っていうトリオ名がシュッとしてた反面、ザ・マミィはちょっと「なんだこれ?」って感じで。
林田 でも、ネタがウケるようになると、反応もすぐに変わったんですよ。卯月時代にも感じたことですけど、何があってもおもしろければ認めてくれるのが、この世界のわかりやすくていいところかもしれないです。
ザ・マミィ
2018年結成。林田洋平(はやしだ・ようへい、1992年9月10日、長崎県出身)と酒井貴士(さかい・たかし、1991年6月1日、東京都出身)のコンビ。『ツギクル芸人グランプリ2019』優勝。『キングオブコント』は2019年から2年連続セミファイナリスト。お笑いラジオアプリGERAで『ねずみの咆哮』のパーソナリティを務める。また、文化放送で9月28日にスタートする新ワイド番組『カラフルオセロ』の火曜パーソナリティに抜擢された。ザ・マミィ Official YouTube Channel
文=安里和哲 写真=青山裕企 編集=田島太陽
【前編アザーカット】
【インタビュー後編】
ザ・マミィのお笑いを届けるには賞レースで結果を出すしかない|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#3(後編)