明日の寝癖に胸がときめく。忘れてはいけない、綺麗になった夜(酒村ゆっけ、)
エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」
「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。
酒村ゆっけ、(さかむら・ゆっけ)
新卒半年で仕事を辞め、食べること、映画や本、そしておいしいお酒をひとり飲みする姿を紹介するYouTube動画などで人気を集める。チャンネル登録者数は70万人を突破。動画投稿だけでなく、書籍の刊行やアーティスト活動など多彩な才能で活躍の場を広げているクリエイター。著書にエッセイ『無職、ときどきハイボール』(ダイヤモンド社)、小説『酒に溺れた人魚姫、海の仲間を食い散らかす』(KADOKAWA)がある。
秒針がチクタクと進む音が静寂な部屋に鳴り響く。
時間は私を置いて、振り返りもせずに進んでいく。
ぬるくなった飲みかけの缶ビールの最後のひと口を飲み干して、空になった缶を指先でちょこんと弾くと、からんと愛のない抜け殻のような音で倒れて転がった。
その瞬間、世界に取り残されたような気持ちになる。正体不明の焦燥感に駆られる夜。
重力に引き寄せられ、動けなくなった身体はゆっくりと沈んでいく。鉛のように重く、もう動かそうと思っても動かない。
影になった天井をぼうっと頭を空にして眺めると、これまでビールと一緒に忘れようと飲み干していた思いがよみがえる。
「風呂に入りたくない」
ただそれだけ。それだけなのに。
とっても簡単なことだと世間では思われているたったそのことが、どうしようもなく億劫で、今夜も人生の時間泥棒をしにきた。
夜は漆黒の目でじっと私のことを捉え、離さない。
時計の針がもう何周したのだろう。
進めば進むほど、この思いが肥大する。
どうでもいいことなのに無視できない。
それは自分の倫理に反するからだ。
最後に風呂に入ったのはいったい、いつだろう。
遠い過去のように思える。
「さすがに風呂に入らないといけない」
そんな正義感が私を苦しめる。まだ人間でありたい。
いつの間にか周囲では、風呂に入っていなくても綺麗に見える都市伝説がひとり歩きするようになった。
私だけが人類の進化を遂げてしまったのかもしれない。
孤独はこうして生まれていくのだ。でも、このままではいけない。孤独に抗うのだ。
夜になればなるほど寂しさに孤独が押しつぶされないように、明かりが灯る。自分の消えかけた輪郭が明かりによって保たれているような安心感。
しかし、私にとっては人工的な光が時には怖く思える。
「お前、いつから風呂入ってないんだよ」
逃がさないからな、犯人はここです、とスポットライトを当てられて身動きを封じられた気分にさせられるからだ。
重い瞼をゆっくりと閉じて、このまま何もなかったということにしよう。
そう思い目をつむると、瞼の裏はまだ明るい。電気を消さないと。
だけど、風呂に入りたくないという思いが足枷になり、電気を消すために起き上がることすらできない。
不思議なことに、スマートフォンを持つ手だけは動かすことができる。青白いライトが私を照らし、充電がぷつりと切れた瞬間に、真っ暗な画面に私の不景気そうな顔が写り込む。
いったい、自分は何と戦っているんだろう。
このもやもやとした気持ちも、人間でなくなるかもしれないという焦燥感だって、風呂に入ればすべて解決するのに。
風呂自体は、嫌いじゃない。むしろひとりで温泉でぼおっと過ごしたり、入浴剤を入れて石鹸の香りに満たされながら好きな歌を口ずさんだりする時間は好きだ。『ドラえもん』のしずかちゃんの気持ちだって少しは理解できる。
そうだ、きっと私は、髪を洗ったあとに乾かすことが嫌いなんだ。
面倒くさいなあという気持ちが渦巻く。灰色のソフトクリームができ上がるほどに。当たり前として受け入れ、無心で行えるその人は称賛されるべきだ。当たり前に生きることは本当にすごいことだと思う。まじめなんだなと。
こうしているうちに、時間はまた進んでいく。一見何もしていないように見えて、入りたくない気持ちと入らないといけないという気持ちが永遠に戦争をしている。自己嫌悪の空が怪しい雲行きを作り出す。騒がしく、忙しない夜だ。街はしんと眠っているのに。
ひとりじゃなかったら、こんな虚無な時間を過ごさずに済むのだろうか。孤独が怠惰を生み出すのか。
人に見られていたほうが綺麗でいられる、綺麗になるという話をどこかで聞いたことがあった気がする。しょせん、そんなの言い訳に過ぎないのだろう。
ずっしりと私の重さで型取られたビーズクッションで思い切り腰を支え、足を天井に向かって垂直に持ち上げる。組体操でこんなポーズあったかなと思い返す。そのまま勢いをつけ、小法師のように起き上がる。重力に逆らった瞬間の落ちるような浮遊感が気持ちいい。
「今なら風呂に入れるかもしれない」
ようやく第2章が始まったかのように目の前が明るくなった。その時は、突然訪れる。
カーテンの隙間から見える空が、いつの間にか筆に水をたっぷりと含んだような黒に変わってきている夜明け前。夜が終わろうとしている。
無印良品で買ったラタン素材のバスケットから、くすんだタオルを取り出す。結局、丁寧な生活をできるかどうかは自分にかかっている。
タオルに顔を埋めると、愛する猫の毛がえらいねと顔一面を包み込む。むずがゆい。少し大人になったと思い込んでいたあのころに、母に抱きしめられたときのようなむずがゆさに似ている。
猫のように風呂に入らずとも綺麗でいることができたら、憂鬱な夜にもさようならできるのにね。
ひんやりとしたタイルが私の体温を足の先から奪っていく。雨が滴るような水の音。音楽室のような静寂の中で、その音だけが響いている。そっと深呼吸。
「なんだ、風呂入るのって簡単じゃん」
そのときはそう思えるのだ。
この気持ちを忘れてはいけない。わかってる。未来の自分に何度もそう言い聞かせた。
泡立ちにくいシャンプーの泡は、ノンアルコールのビールのようだ。新しい自分が生まれていく。数日後には、また廃れた自分がスマホの画面に映るのだろう。
綺麗になったこの夜が、ずっと続けばいいのに。
明日の自分が、明後日の自分が、この不毛な己との戦いを忘れてしまわないように。
忘れられない、忘れてはいけない夜。
明日の寝癖が楽しみだな。
文・撮影=酒村ゆっけ、 編集=高橋千里