幼なじみとの逃避行。涙のあとで“宇宙”を見た夜(長井 短)
エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」
「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。
長井 短(ながい・みじか)
1993年生まれ、東京都出身。「演劇モデル」と称し、舞台、テレビ、映画と幅広く活躍する。読者と同じ目線で感情を丁寧に綴りながらもパンチが効いた文章も人気があり、さまざまな媒体に寄稿するなか、初の著書『内緒にしといて』を晶文社より出版。現在4月クールドラマ『ねこ物件』に出演中。
その夏、私はひどく落ち込んでいて、人と目を合わせられないくらいに憔悴していた。
精神的に完全にまいっていることが自分でもわかるから病院に行ってみるのに、結局お医者さんと目を合わせることも怖く、薬をもらうこともできない。どこで、何をしていても涙が出てくる夏だった。
私はそういう自分のことが本当に嫌いで、だってそういうキャラじゃない。泣いて誰かに心配されたり、気を遣ってもらったりするようなタイプの人間じゃないはずなのだ。
どうしたら、私が大好きな私に戻れるんだろう。クヨクヨ悩んでいる私のもとに、何も知らない友達からLINEメッセージが届く。
「夏終わるしドライブしよう」
幼なじみからの誘いだった。正直、今の精神状態で友達に会っても楽しめる気はしない。でも、だからってこのまま部屋に閉じこもっていても何も変わらないってことはもうわかっていた。
まぁいいか、こいつらなら。
考え始めたら断ってしまいそうで、私は勢いに任せて適当に肯定のスタンプを返す。彼らが迎えに来たのはそのLINEから数時間後で、私のまぶたは全然腫れていた。
どこに行くかも決めないまま、私はいつもどおり後部座席に乗り込む。車内にはいつもどおりのディズニーソングが流れていて、助手席に座るKは音楽に合わせて激しく揺れていた。運転するSは「帰りたい」と言いながら微笑んでいる。
Sが免許を取った8年前から変わらない景色だった。この車の中は、私が落ち込む前と何も変わっていない。私のまぶたが腫れていても、身体の中に大きな石が入っているみたいに呼吸しづらくても、ここにはなんの影響もない。
その証拠に、ふたりはいつもどおりに「早く王様になりたい」を熱唱している。私の口も勝手に歌っている。私の心がどうであれ、この車に乗り込んだときの作法を身体が覚えているのだ。よかった。
車はあてもなくグングン進む。気づけば高速道路に乗っていて、私たちの歌声は車の速さに追いつけず道路に置き去りにされる。スピードが上がれば上がるほど、何かを落としながら進んでいるようだった。
同じ曲を、同じように歌いながら、私たちは進む。目は合わない。3人とも、ただ前を見つめながら大きな声で歌い続ける。KとSの頭越しに見える景色がだんだんと暗くなってきて、永遠みたいな夕暮れが終わった。
つらい、ってことをふたりに気づいてほしかったわけじゃない。話を聞いてもらいたいとも思っていない。
ただ、今なら捨てられるんじゃないかと思った。こんなに速く走っているから、歌声がすぐ彼方に消えていくように、私の苦しさも、ここで口にすればどこかへ飛んでいくんじゃないかって思ったのだ。
「これ、別に聞かなくていいから」
そう前置きしてから、私は独り言のように自分の中に溜まっていた言葉を吐き出す。車内には今も明るい音楽が流れているし、窓を開けているから風の音もうるさい。だからきっと声は届いていない。それでいい。
ふたりに聞いてほしいわけじゃなくて、ただこの、どこかもわからない高速道路に自分を捨てていきたかった。
暗い車内に時々対向車線を走る車のハイビームが差し込む。そのたびにSは「眩しーな」と悪態をつく。まねをするみたいに、私もそっと悪態をついてみる。
「馬鹿」「嫌い」「消えろ」「もうやだ」
私の声はどんどん大きくなる。涙も出る。だけどふたりはけっしてこちらを振り向かない。だから続ける。
「バーカ!!!」
いよいよ大きくなった私の声にふたりが笑う。そして繰り返す。
「バーカ!!!」「ムカつくんだよ!!!」「ムカつくんだよ!!!」
だんだんおかしくなってきて、私も泣きながら笑う。
そうやってどのくらい走っただろう。気持ちが楽になっているのかはわからなかった。でも久しぶりにホッとしていた。
だって、ふたりは本当に何も聞かない。どう考えても情緒がおかしい私を見ても「大丈夫?」のひと言もないし、音楽を止める気もない。むしろ私の叫び声をかき消すように「Let It Go」を歌うくらいだ。
なんだよこいつら。いくら心配されたくないとはいっても、ここまで心配されないとそれはそれで腹が立ってくる。でもまぁいいか。幼なじみだしな。離乳食教室から一緒なのだ。今さら心配も何もない。
二度と来ないであろうコンビニで軽食を買って休憩する。時刻はもう23時を過ぎていて、駐車場には長距離トラックがおもちゃみたいに並んでいた。別にもう帰ってもいいけど、でも、もうちょっとこうやっていたい。
そう思いながら大して食べたくもない赤飯おにぎりを食べていると、Kが「いい橋がある」と言い出した。どうしてもそこを渡りたいと言うKのわがままを「もうやだよ~」と言いながらも、Sは入念に場所を確認している。よかった。まだ遊べるんだ。
車に戻った私は、さっきまでのぶんを取り返そうと一生懸命歌った。喉が潰れても構わなかった。3人でご機嫌に歌いながら橋へ向かう。
ようやく橋が見えてきて、これは歌いがいがあるぞと思った瞬間、カーステレオが止まる。「ちょっとゆっくり走って」というKの指示どおり、Sは車のスピードを緩めた。何事だろう。
人も車もいない倉庫街を抜け、目の前には白く光った橋が現れる。なんて大きさだろう。暗闇の中に突如浮かぶ人工物は宇宙船のようだ。
いよいよ、車が橋に乗り上げた瞬間、さっきまでとは比べものにならないほどの爆音で「スター・ウォーズ」のテーマが鳴り響いた。それは、私の一番好きな曲。耳からだけじゃなく、振動としても音楽が身体に入ってくる。「なんで」と聞くと、「特別~」とだけ返ってきた。
光が白く伸びて私の横を通り過ぎていく。下を見ても真っ暗で底は見えない。本当に浮いているようだった。というか、たぶん浮いていた。
あのとき、あの橋は宇宙で、私たちの乗っていた車は宇宙船になった。SとKがいつから宇宙に行くことを計画していたのか、私は知らない。別に計画でもなかったのかもしれない。そんなことはどうでもよくて、ただ、ふたりが特別に、私に宇宙を見せてくれたことがたまらなくうれしかった。
そしてすべてがどうでもよくなる。涙が出てしまうことも、苦しいことも、どうしても納得できないことも、全部、今私が宇宙に到達したことと比べれば些細なことだ。
私は、大好きな幼なじみと宇宙に来た。それ以上に意味のあることなんてこの世にはない。いや違うか。意味がないから素晴らしいのだ。
ここはただの橋で、乗っているのは乗用車。なのにそれを、意味なく宇宙に感じられる今、ここが、この夜が、何よりも大切だ。
ほかの意味あることなんてすべて生きるための動作でしかない。動作ではないただひたすらの無意味な感動が、私を救う。
橋を渡り切ったとき、私はふたりに「もう1回!」と言った。ふたりは笑ってそのとおりにしてくれた。何度も、何度も。
窓から宇宙を見つめると、また涙が出る。でもそれは、宇宙の彼方へすぐに消える。だから大丈夫。すべての涙が宇宙に置き去りになったとき、私たちはやっと地球に戻る。そしてまた、どこだかわからない場所で車を降りて、朝日を見る。
ふたりはやっぱり、何も聞かない。私も、何も言わない。ただ疲れた。身体が重い。でもその重たさは、昨日までのものとは違う。めちゃくちゃだった夜の重たさを、私は一生抱えていたい。
文・撮影=長井 短 編集=高橋千里