マッチョイズムの凡庸さを暴く──押見修造『おかえりアリス』
【連載】生きづらさを乗り越える「大人のためのマンガ入門」
仕事、恋愛、家族、結婚……大人のありきたりでありがちな悩みや生きづらさと向き合い、乗り越えていくためのヒントを探るマンガレビュー連載。月1回程度更新。
※本記事には性的な記述が含まれていますのでご注意ください
俗悪な「男らしさ」への欲望
21歳のとき、初めてセックスをした。まったく気持ちのよい話ではない。苦手な方は読み飛ばしてほしい。
大学やバイトの飲み会で周囲の男友達が「そういう話」をしているときに、私はグラスの水滴を拭ったりスマホに目をやったりしながら口をつぐんでいた。中学、高校と同性しかいない野球部の環境にどっぷり浸かって思春期を過ごし、盛り上がるのはほとんど野球の話か「そういう話」だった。そして大学に入ってからも、性交経験がない自分は男として欠陥品である、という価値観を内面化していた。
「早く男として一人前にならなければ」。陳腐で偏狭な動機で、男友達とゲーム感覚で合コンへ出かけた。異性と話すのは苦手だった。しかしそれは自分自身の甘えであり、男としての弱さ、情けない部分だと私は認識していた。野球の基礎練習を繰り返すように、何度も反復を重ねればその欠陥は克服できるはずだと思った。実際に私は対話のコミュニケーションではなく、恥ずかしさやうしろめたさの感覚を麻痺させたまま会話をする練習を重ねた。その場の空気に合わせた軽口やお笑い芸人のトークを真似した冗談によって、飲み会を盛り上げたりデートに誘ったりするやり方を身体化していった。そうやって私は、欠点を克服したのだと誇らしい気持ちになった。おそろしく平凡に、マッチョな男性像を内面化していた。
そして合コンで知り合った女性と、どこかで聞いたような手順をなぞって初めてホテルへ行った。シャワーを浴びて、同い歳ということ以外ほとんど何も知らない女性の体に触れて、そのとき「取り返しのつかないことをした」と思った。目の前にいるのは、私の想像の中で相対化していた「女」ではなく、生きている人間だった。その感覚が薄れていた自分自身におぞましさを感じた。
最初はその真っ当な恐怖心すらも反復によって克服できると思っていたが、その後も私は異性と向き合うことができなかった。そして、何度試してもセックスができなかった。生身の人間を目の前にして体がうまく動かなくなり、「男なのに」という罪悪感が頭をかすめ、意識すればするほど勃起できなくなる。
その後、恋愛やセックスに限らず、コミュニケーションはけっして反復の成果ではなく、ましてや自分の感覚を麻痺させることでもない、と理解するまでにはとても長い時間を要した。しかし「男として」の不能感はずっと消えなかった。
「男はもう降りました」
「「男はこうだ」「男なら当たり前」って言われてること 僕にとっては全部違った」
「あと 僕は男を降りただけで 女になりたいわけじゃないから」
(『おかえりアリス』1巻より)
押見修造『おかえりアリス』を読んで、自分の中に染みついた強固な男性性のおぞましさを改めて思い出した。うまくセックスができないという「男として」という陳腐な呪いから、お前は本当に抜け出したのか、と鋭利な刃物を突きつけられる感覚。
物語は、主人公の幼なじみの室田慧が女子の制服を着て学校に現れるところから動き出す。クラスメイトの好奇の目に晒されながら、慧は「男は もう降りました 下世話な質問はしないでください」と宣言する。周囲の軽口に同調せず、先輩からの嫌がらせに抵抗しながら自身の選択を貫く慧。男女二元論を前提としない生存のあり方、異性愛規範に捉われない性の向き合い方を実践している慧の描かれ方は、非常に価値のあるものだと思う。
その慧と対照的に、高校生なりに旧弊の「男」を内面化している主人公の亀川洋平は揺れ動いている。ことあるごとに「男なのに」「男だから」と考える洋平の姿に、根強く社会に跋扈しているマッチョな価値観が重なって映る。おそらく高校生の年代になるよりも遥かずっと前の、男子の遊び場のコミュニティからすでにその価値観は培養されている。けっして先天的なものではない。
好意を寄せていた三谷結衣と付き合うことになった洋平は、彼女の家で初めてセックスをしようとするが、彼は勃起できない。「私…ダメなんだ」と泣く三谷を目の前に、洋平は狼狽する。
「でも……で…も…たたなかった… できな…かった… いざ……いれようとしたら…全然ダメだった」「ハハハ…おかしいよな俺…! 男失格だよな…!」
(『おかえりアリス』3巻より)
女性を前にして「たたなかった」ことを恥ずべき失態だと感じている洋平。自分自身を追い詰めていく彼に対し、慧はこう語りかける。
「たたないからって どうしてダメなの?」
(『おかえりアリス』3巻より)
「たたないこと」は男性として失格である──。文字にすれば笑ってしまうほどこの陳腐な呪縛から、私は本当に逃れられているのだろうか。洋平がどういうやり方で抜け出していくのか、慧と三谷がどう自身の性と向き合っていくのか、本作の結末はまだ描かれていない。ただ、正面から「男として」というマッチョイズムの陳腐さを暴き出す貴重な作品であることは間違いない。
ずっと自分の中にある強固な男性性から逃れたいと願ってきた。私はまだ、抜け出せていない。ここまでの凡庸な自分語りそのものが、自己言及的に私の陳腐なマッチョイズムを表しているのかもしれないと考えると恐ろしくて仕方がない。対話を通じたコミュニケーションの経験を少しずつ重ねるなかで「男らしさ」を降りたつもりでも、ふとした折に自分の中にある「男らしさ」への欲望が顔をのぞかせる瞬間がある。本作は、私のように未だ旧弊の価値観に毒されている男性に、その悲しいほどの凡庸さを突きつける説得力を宿している。
文=山本大樹 編集=田島太陽
山本大樹
編集/ライター。1991年、埼玉県生まれ。明治大学大学院にて人文学修士(映像批評)。QuickJapanで外部編集・ライターのほか、QJWeb、BRUTUS、芸人雑誌などで執筆。(Twitter/はてなブログ)