誰でも船は出せる──『海が走るエンドロール』
【連載】生きづらさを乗り越える「大人のためのマンガ入門」
仕事、恋愛、家族、結婚……大人のありきたりでありがちな悩みや生きづらさと向き合い、乗り越えていくためのヒントを探るマンガレビュー連載。月1回程度更新。
かつてカメラは、一般市民では手の届かない高級品だった。安価かつコンパクトな普及モデルが登場し、誰もが写真や映像を撮影できるようになったのは1990年代に入ってから。その後、2000年代初頭には携帯電話にカメラ機能が搭載され、日常の場面でカジュアルな写真撮影が可能になる。そして現在、InstagramやYouTube、TikTokといったプラットフォームが広く浸透し、表現の扉はあらゆる人々に開かれた。専門知識や機材がなくても、アプリひとつで作品制作ができる。新しいメディアが流行するたびにそこで生まれる表現を否定する向きもあるが、それもまたかつて何度も繰り返されてきた歴史である。
90年代、フィルムで修行を重ねてきた一部の写真家が「デジタル画像は写真じゃない」と強弁したように、YouTuberは強烈な偏見の目に晒され、TikTok書評家もSNSで理不尽に槍玉に挙げられる。しかし、いくら旧弊の側がその価値を主張したとしても、新しい表現は生まれ続ける。私自身はまず、この世界に存在するすべての作り手に敬意を払うという立場を取っている。作り手が生み出した作品の価値や良し悪しを検討するのはその次だ。
「表現の一歩目」の葛藤と決断
たらちねジョン『海が走るエンドロール』は、表現が今まさに生まれる瞬間の感情の動きを丁寧にすくい上げた作品だ。主人公は、65歳の茅野うみ子。数十年ぶりに足を踏み入れた映画館で美大生の濱内海(かい)と知り合い、映画制作に没頭する彼の姿に刺激を受け、自らも映像の道を志す──。
あらすじからもわかるとおり、『ブルーピリオド』(山口つばさ)や『左ききのエレン』(かっぴー/nifuni)に代表される近年の“美大マンガ”の系譜にある作品だ。そして、本作において特筆すべきはその「表現の一歩目」の葛藤と決断にある。
映画に関心を持つうみ子はこれまで表現や創作に携わったことがない、極めて一般的な地点からスタートしている。「映画を観ている人が好き」といううみ子に対して「本当は映画作りたい側なんじゃないの?」と海は訴える。そこから海の通う美大の映像学科の願書を取り寄せ、少しずつ映画制作への道に進んでいく……が、その歩みはとてもスローペースだ。
海が参加しているグループ展のギャラリーで、うみ子がスマホで撮影した映像を流そうとしたときも、彼女は「ただの老後の趣味だから」と謙遜してしまう。けっして「老後の趣味」ではないことは、本人もわかっている。それでも、自分よりも年下の美大生に囲まれて萎縮し、自らの意思で表現をすると決めたのにもかかわらず、言葉が滑り出してしまう。そして、海からこう指摘される。
「老後の趣味って言ってましたよね」「…そういう思ってもないこと言ってしまった時 後悔しないんですか」
(『海が走るエンドロール』1巻より)
ものを作ること、人前にそれを差し出すことの困難さに比べて、「表現したい」という心を簡単に折るような棘はいくらでもある。うみ子には、多くの大人と同じく、衝動や勢いだけで表現ができるような若さはない。「老後の趣味」という予防線を張ることで、無意識にその棘を避けようとする心理は痛いほどわかる。
この文章を書いている私自身、学生時代は写真家に憧れ、少しだけ写真を専門的に学んでいたのだが、ゼミで指導教官から講評を受けるだけでも毎回胃が押しつぶされるような気持ちになった。今振り返ればそれなりの時間と労力をかけて制作に取り組んでいたが「少しだけ学んでいた」と書いてしまうところにも、改めて自分の卑屈さを感じている。しかし、たとえ趣味であっても仕事であっても、アマチュアであってもプロであっても、人前に何かを差し出す時点でその予防線は意味を持たないのだ。私は最後までその覚悟を持つことができなかった。
「船を出す」という選択
うみ子はまだ映像の基礎を学び始めたばかりで、専門的な知識もスキルもない。しかし、スマホで動画を撮ることはできる。表現の扉は、年齢もキャリアも技術の巧拙も問わず、あらゆる人々に開かれている。
ロケハンに出かけたうみ子は、同行した海に自身の胸中を吐き出す。
「作る人と作らない人の境界線てなんだろう」「船を出すかどうか…だと私は思う」
(『海が走るエンドロール』1巻より)
うみ子は1巻の終盤で、表現者としての自身と向き合う覚悟を決める。「誰でも船は出せる」──そこに本作のメッセージがはっきりと打ち出されている。その船が風を捕らえて洋上に出ていくのか、あるいは荒波に揉まれて沈んでいくのか、その行方は誰にもわからない。かつて写真家を目指して挫折し、今こうして別のかたちで筆をとっている私も、まだうみ子と同じく浅瀬にいるが、もう一度小さなイカダで海へと漕ぎ出しているつもりだ。
メディアもテクノロジーも日々アップデートを重ね、それに呼応して新しい表現も生まれ続ける。船を出すという選択を取ったすべての人を祝福したいし、社会はすべての船を寛容に受け入れる大海であってほしいと願う。
文=山本大樹 編集=田島太陽
山本大樹
編集/ライター。1991年、埼玉県生まれ。明治大学大学院にて人文学修士(映像批評)。QuickJapanで外部編集・ライターのほか、QJWeb、BRUTUS、芸人雑誌などで執筆。(Twitter/はてなブログ)