「人生における“サボりの期間”が、その後の糧になる」下田昌克のサボり方
クリエイターの活動とともに「サボり」にも焦点を当て、あの人はサボっているのか/いないのか、サボりは息抜きか/逃避か、などと掘り下げていくインタビュー連載「サボリスト~あの人のサボり方~」。
色鉛筆による生き生きとしたポートレートなどで知られる画家/イラストレーターの下田昌克さんは、近年のライフワークとして、キャンバス地で恐竜の被り物を制作している。恐竜の化石が放つ本質的なカッコよさをポップに落とし込んだ被り物を「衝動的に作り始めた」という下田さんに、その創作の経緯などについて聞いてみた。
下田昌克 しもだ・まさかつ
1967年、兵庫県生まれ。1994年から2年間、世界各国を旅行。旅行の絵と日記をまとめた『PRIVATE WORLD』(山と渓谷社)を出版し、絵の仕事を始める。2011年よりプライベートワークでハンドメイドの恐竜のヘッドピースを作り始める。2018年、COMME des GARÇONS HOMME PLUSがAWのメンズコレクションのショーにて、そのヘッドピースを採用。2021年、Virgil Ablohからの依頼で制作したマスク、ヘッドピースがOff-White/Fall 2021/Paris,Franceで使われる。絵本『死んだかいぞく』(ポプラ社)が、イタリアにてボローニャ・ラガッツィ賞2024特別部門「海」で特別賞(Special Mention of the 2024 BolognaRagazzi Awards for The Sea – 2024 Special Category)を受賞。2024年には、音楽劇『死んだかいぞく』が上演された。
何もうまくいかなくて、海外を放浪した2年間
──下田さんはどんな人に影響を受けて、アートやデザインの世界に興味を持ったのでしょうか。
下田 子供のころは手塚治虫が好きでしたね。10代になってからは、ジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグの映画を意識して観るようになりました。『スター・ウォーズ』や『E.T.』とか、当時は「これが観たかったんだよ!」っていう感じで。
──その後、美術系の学校に進まれますが、最初からアーティストを志していたわけではないそうですね。
下田 だって、なれると思わないじゃん! 子供のころは絵を描けば褒められたけど、美術の高校に行ったら、クラスで一番ビリで、勉強もできなくて……。クラスのみんなが美大を目指してるのに、ひとりだけ先生から美大進学の話を一回も聞かれないまま卒業したくらいだったので、絵で仕事ができるとはとても思えなかったです。
それで、会社員になったんですけど、全然うまくいかない。結局、会社をクビになったから、親のお金でデザインの専門学校に行かせてもらったものの、就職したデザイン事務所も1年でクビ。それからアルバイトをいろいろやってみたけど、それも全然続かない。本当に何をすればいいのかわかんなくなって、一度、働くということから離れてみようと思いました。
──そこから、海外を放浪することになったと。
下田 最初は国内を自転車でブラブラ回ってたんですよ。まだ若かったから、人の家に泊めてもらったり、食べ物を食べさせてもらったり、アルバイトさせてもらったりしながら過ごしていたら、初めて貯金できて、100万円くらい貯まった。
──すごいですね!
下田 それで、そのお金を持って海外旅行に行ったんです。なんとなく日記でも描きそうな気がしたので、スケッチブックと色鉛筆をカバンに入れて。中国からチベット、ネパール、インド、ヨーロッパなんかを回ったんだけど、時間を持て余してやることがなくなったときでも、日記帳に撮った写真を貼ったり、絵を描いたり、日記を書いたりしていました。学校の宿題の日記なんて一度もちゃんとつけたことないのに。旅行していた2年間で、出会った人たちの絵は500枚くらい描いたと思います。
下田さんが海外を旅したときの日記
──下田さんの視点で旅の空気感がパッケージングされていて、スクラップブックみたいな作品になっていますね。中でも人との出会いは大きかったんですね。
下田 風景を描いてみたりもしたけど、人としゃべりながらその人の絵を描いたりするのが楽しくなって。そこで、「仕事にするのは無理だとしても、こういうことを一生続けていけたらいいな」ってなんとなく思うようになった気がします。
とにかく絵の仕事に専念してみようと「自称絵描きに」に
──ポートレートに関しては、このころからあまり作風が変わらないように思いますが、旅の中で生まれたスタイルなんですかね?
下田 そうですね。ずっと変わらない。持ち運びやすいし、すぐ描き始められるし、どこでも手に入るし、片づけもいらないから、色鉛筆は自分には合ってたと思います。人の描き方も、目の前に座ってもらっているから時間がかけられないし、向かい合ってずっとしゃべりながら描くから正面の顔ばっかりになって、こういう絵になった。
──それがきっかけで、絵の仕事をされるようになったんですね。
下田 旅行から帰ってきて、写真や絵をまわりの友人などに見せていたら、人づてに週刊誌の連載の話をいただいたんです。もちろん、最初は絵だけじゃやっていけませんでしたよ。でも、絵を描くことで関わったデザイナーさんや挿絵を描いた小説家の方など、会う人たちがおもしろい人ばかりだったので、もっと絵の仕事をやってみたいと思うようになって。
それで、アルバイトの求人もなくなってきた30歳のタイミングで、絵の仕事だけで一度やってみようと思いました。ダメだったら、またバイトして考えようかな、くらいで。
──「描きたい絵を描く」のと「仕事として絵を描く」のは違うと思いますが、「とにかく絵を仕事にする」という気持ちが大きかったのでしょうか。
下田 そうですね。絵の仕事ならなんでもよかったんですけど、きっかけが旅行中に描いた絵だったから、自分の描きたいものを作らせてもらえることも多かったです。小説の挿絵とか、題材があって「何を描こうか」って考える仕事も大好きですし。自分発信だけでやるほど中身もないから(笑)、両方できてよかったと思ってます。
──自分から発信する場合、何かテーマや題材などはあったりするのでしょうか。
下田 作りたいものがあって、それをどうやってかたちにするか考えたり。たとえば、最初の絵本は、旅行中に描いた風景画をつなげていったらお話になりそうな気がして、絵本を作ってみたいと思って。とりあえず自分で1冊作ってみて、コピーして製本して出版社を回って、「これが作りたいんだけど、どうしたらいい?」って聞いて回りました。
──物語を考えたりするのも好きなんですか?
下田 好きは好きだけど、その風景画の絵本のときは、とりあえず絵だけで作ってみて、本になることが決まったときに「文章どうしよう」って聞かれて。誰か文章を書ける人がつけてくれるもんだと思ってたら、「僕が書くの!?」みたいな(笑)。先に絵でお話を作っちゃったから、自分しかいないといえばいないんだけど、本当に何も知らないまま作ってたので。
欲しいものがなかったから、自分で作ることにした
──恐竜の被り物も、なんとなく興味の向くまま手を動かしたことが制作のきっかけらしいですね。
下田 2011年に、恐竜博に行ったのがきっかけで。久しぶりに見た恐竜の骨格標本がすごくカッコよくて、買い物をする気満々でミュージアムショップに行ったら、そのときは欲しいものが何もなくて、図録だけ買って帰ったんです。
家に帰ったら、絵を描くキャンバス用の布が丸めて置いてあって、なんとなくそれを切ってトリケラトプスの角とかを作ってみたんですよね。なんとなくだから、サイズも自分が基準になってて、なんか被れそうなものができ上がったから被ってみたら、「おお〜っ!!」と思って。2次元にはない、原始的な興奮を感じた気がしたんです。
──絵では表現できない何かを感じた。
下田 しばらくは絵も描かずに、ずっと作ってましたね。
──キャンバス地で恐竜の被り物を作るのも、意味やテーマはないんですね。
下田 そう。たまたま恐竜博に行って、布があって、ガムテープやホッチキスを使って形にしてみただけで。でも、作っているうちに、だんだん「中に何か詰めたほうがいいな」とか「ミシンを買ってみようかな」とか「身につけるっていうのがおもしろいな」とか思うようになって。だから、全部あとづけ。仕事につながるなんて思いもしなかった。
──それを周囲の人が見てくれたことで、広がりが生まれたんですか?
下田 でも、最初はちょっと怖がられてましたよ。絵も描かずに急に恐竜を被り始めたから、本当に心配してる人もいて、「今だから言えるけど、あのころちょっと怖かったよ」みたいな(笑)。僕は僕でカッコいいものができたと思ってるから、毎日のように持ち歩いて被ったりしてたんだけど、たしかにちょっと怖いですよね。
──ただ、中にはおもしろがってくれる人もいた。
下田 そう。たとえば、一緒に絵本を作る仕事で出会った谷川俊太郎さんは、わりと最初から率先して被ってくれました。それで谷川さんと会うときは一番新しい恐竜を持っていくようになったら、谷川さんが「これに詩を書くから、連載できる場所を探してきて」って言ってくれて。それがきっかけで雑誌の連載が始まって、世に出るようになりました。でも、撮影してくれた藤代冥砂さんもそうだけど、仕事というより単に楽しんでくれてたのかもしれない。
原点は、ひとりで行った映画館の暗闇
──被り物以外にも舞台の美術や小道具、衣装を手がけられたり、活動の幅を広げられていますが、それぞれ向き合い方などは違ったりするのでしょうか。
下田 道具や材料が変わるだけで、一緒ですね。一生懸命やります。スタイルを変えたとか言われることもあるんだけど、全然変えてませんから。そのときの自分のブームによってやることが違ったり、いただいたテーマによってやり方を変えたりしているだけなんで。自分のスタイルみたいなものに特にこだわりがないというか、スタイルと呼べるほどのものを持ってない(笑)。
──では、「こういうことをやってみたい」「こういう絵を描きたい」といった展望も特にない?
下田 ないですね。そういう作戦とか考えたほうがいいんだよな、本当は。でも、手を動かしていると何かがやってくる感じで。
──恐竜との出会いはまさにインスピレーションが刺激された経験だと思いますが、同じようにインスピレーションを得た経験はほかにありますか?
下田 なんだろう、映画とかライブとか展覧会とか、いろんな本とか。小学生のときから、ひとりで映画館に行くのが許されてたんですよ。僕は落ち着きのない子供で、授業中にじっとしてられなかったりしたこともあったんですが、劇場や映画館は大好きで、そういうところでは静かに大人しくできた。あと、コンサートやお芝居は親に連れていってもらって、劇場で「ここは大人の場所だから、大人にしてなさい」と母親に言われたのをすごく覚えている。
まわりに子供がいない感じが妙に好きだったんですよ。友達と遊ぶのも好きだけど、ひとりで映画館に行って、暗闇の中で「落ち着く」とか思うような小学生でした。それが中学になると映画を観たついでにジャズ喫茶に寄ったりするようになって、高校になると洋書屋さんに立ち寄ってアートを見たりするようになった。そうやってひとりで観て、読んで、聴くことでふくらんでくるものがあって、いまだに創作の材料になっているような気がします。
──10代で出会うものって、特別ですよね。
下田 やっぱり一番強烈なんだよなぁ。あのころいっぱい遊んでよかったと思う。当時、地元の神戸でRCサクセション、YMOのライブも観に行ったりしてました。一応学校ではまじめにやってたんですよ、まじめにやってるのに成績がビリだったっていうだけで。一番カッコ悪い(笑)。
創作は、自分の中の“好きな点”がつながることで動き出す
──「サボり」がこの企画のテーマなんですが、下田さんにとっては人生におけるサボりの時間が大きそうですよね。10代の過ごし方もそうですし、2年間海外にいたのも大きな意味でサボりといえそうです。
下田 まあ、学生時代はサボってたんでしょうね。だからこそ、あのころに観たものが深く刺さってる気がする。ずっと取っておいてあるんだよね、当時の映画やお芝居のチケット。今と違ってカッコいいでしょ。
当時のチケットの束
──すぐに出てくるのがすごいです。
下田 宝物だもん。僕の札束だよ。たまんなくない?
──たまらないですね。このころが特別な時間だったことが伝わってくるというか。
下田 友達と行くこともあったけど、このチケットはだいたいひとりで行ったものだと思う。
──ひとりだからこそ、自分の中で熟成されるようなこともありますよね。
下田 どうなんだろう。でも、たしかに自分の作るものも、何もないところから湧いてくるんじゃなくて、過去に観たものや、知ったこと、経験したことなんかが点としていっぱいあって、それが何かの瞬間にビャーッとつながる感じですね。そういう“好きな点”がいっぱいあるといいですよね。サボりながら、遊ぶようにその点を作ってこられたことは、自分にとってよかったと思います。
撮影=石垣星児 編集・文=後藤亮平