賑やかな夏景色が懐かしくなった、蚊がいない暑すぎる夜(夏川椎菜)

エッセイアンソロジー「Night Piece」

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エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」
「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。

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夏川椎菜(なつかわ・しいな)
1996年7月18日生まれの声優、アーティスト。2011年に開催された「第2回 ミュージックレイン スーパー声優オーディション」に合格し、翌年より声優として活動を開始。『アイドルマスター ミリオンライブ!』シリーズ、『響け!ユーフォニアム3』(NHK Eテレ)、『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』など多数出演。2015年からは同じく声優の麻倉もも・雨宮天とともにユニット「TrySail」(トライセイル)としても活動し、これまで横浜アリーナ公演などを成功させている。2017年4月には1stシングル『グレープフルーツムーン』で自身の名義にてソロデビュー。2023年11月には3枚目のアルバム『ケーブルサラダ』を発表し、12月よりライブツアー『LAWSON presents 夏川椎菜 3rd Live Tour 2023-2024 ケーブルモンスター』を開催。2024年10月30日に9枚目のシングル『「 later 」』をリリース予定。ほかにも小説・コラムなどの執筆活動や、舞台出演など、声優だけに留まらない幅広い活動を展開している。
HP:https://www.natsukawashiina.jp/
X:@Natsukawa_Staff
ブログ:『ナンス・アポン・ア・タイム!』

今年の夏、蚊がいなかったのである。

調べてみたら、蚊は25℃から30℃で活動が活発になり、35℃以上になると木陰で休む傾向にあるのだという。
40℃になると死んでしまうこともあるんだとか。
つまり、今夏の気温は蚊にとって「活動限界」なのだ。

たぶん、人間の活動限界も同じようなもんだと思うが、
なぜこんなにも街は人であふれかえっているのか。

国の偉い人たちには、ぜひとも本気で「夏眠制度」の導入を検討してもらいたい。
外気が35℃を超える見込みなら、すぐにすべての経済活動を中断して、みんなでお家で冷麺とか食べるのである。
お外が涼しくなるまで、そうやって耐え忍ぶのである。

今年は、夜でも容赦のない暑さだ。
陽はもう落ちきっているというのに、昼の熱気を吸い込んだコンクリートが「もう我慢ならん」という感じに放出するせいで、暑さがぶり返す。

夏の夜といえば、子供のころの嘘みたいに風流な景色を思い出す。
祖父の家、風鈴の音が鳴っている縁側に、足を投げ出すようにして座り、ばあちゃんが切ったスイカをかじる。
庭ではみんなが花火をしていて、「線香花火、誰が一番長くもつか」なんて勝負で盛り上がる。
花火の煙と、蚊取り線香の香りが混じって、めっちゃいい香りの催涙ガスになって飛んでくる。
思わず吸い込んでしまって、むせて、家族に背中をさすられる。

花火

あのときは、なんでもない、ちょっとだけ賑やかな夏の夜という認識でしかなかった光景だが、時が経った今、あまりにも再現性がないことに、ちょっとだけ悲しくなる。

そう、この暑さじゃあ。
風鈴はなんの気休めにもならず、スイカはすぐにぬるくなる。
線香花火よりも先に、汗が滴り落ちるのだろうし、蚊は活動限界中なのだから、蚊取り線香も必要ない。
ていうか、縁側がない。
都内じゃ花火も難しい。

うう、悲しくなってきた。

ともかく私が言いたいのは、このクソ暑さのせいで、夏の夜の風物詩がかなり失われてしまったんじゃねぇの?ってことである。

蚊がいない。

今年の夏、蚊がいないのである。

どっちかといえば、たぶん喜ばしいことなのかもしれない。
でも、ちょっとだけ浮かばれない想いが、たしかにここにあるのである。

私は去年、運命の出会いを果たした。
たまたま立ち寄った百貨店で、鳥をモチーフにした作品が集う企画展をやっていて、ある作品にひと目惚れした。

ハシビロコウを模した、陶器の蚊取り線香スタンドこと「コータロー氏」である。

切り株の上にちょこんと座ったコータロー氏が、両翼を使って器用に鉄の棒を持っている。
鉄の棒の先は、蚊取り線香のサイズに合わせたクリップのような形状になっていて、蚊取り線香のトグロの最終地点に挟むと、固定できる。
コータロー氏が蚊取り線香の傘をさしているように見える、激アゲ最カワ夏アイテムなのだ。

コータロー氏

コータロー氏に出会ってから、私は夜ごと近くの公園に出かけていって、コータロー氏と晩酌を楽しんだ。
(余談だがこの公園には、毎晩ブレイクダンスの練習をしながら動画を撮っている、おじさんTikTokerがいる。コータロー氏と過ごした夜には、必ずこのブレイクダンスおじさんも一緒だったということを、一応、書き添えておく)

コータロー氏は、毎回健気に蚊取り線香を背負って、私を蚊から守ろうとしてくれているのだが、肝心の蚊のほうが活動限界中なので、あまり意味をなさない。

無駄な蚊の殺生が発生していない、と考えれば、平和な世界でいいじゃないか、と思えるのだが、こちらは、この激アゲ最カワ夏アイテムを使いたいがために、わざわざクソ暑いなか公園で晩酌しているわけなので、ちょっとだけ虚しくなっちゃうのだ──パンダを観るため長蛇の列に並んだのに、自分の番になったら終始遊具の影にいて、背中の一部しか見ることができなかったみたいな誰も、何も悪くないし、パンダはかわいいんだけど、それでも感じてしまう「この時間はなんだったんだ」という。
あの感じに似ている。

なんだか申し訳なさそうな背中で、蚊取り線香を背負うコータロー氏の横で、私は「まぁ、でも蚊取り線香っていい香りだしな」とかいってなんとか気分を上げつつ、コンビニで買ったお酒をチミチミ飲む。
(肴になるものは、ブレイクダンスおじさんしかない。全然上達しないな、なんてことを思いながら飲む)

しばらくすると私の活動限界もやってくるので、まだ半分以上も残っている蚊取り線香の火を消し、コータロー氏を箱に戻してさっさと退散する。
たぶん晩酌していた時間より、準備のほうに時間がかかっている。

そんなわけで、コータロー氏はいまだにその本領を発揮できないままなのである。

今年の夏も、何度か試みてはみたのだが、気温が高すぎて断念したり、気温はよくても雨が降ったりしたせいで、公園のベンチが使えなくなっていて、あきらめている。
(だから、おじさんのブレイクダンスが上達したのかどうかも、私は知らない)

夏の気温が下がってくれれば、すべてが解決するので、ぜひそうしてもらいたい。
私は、せっかく手に入れたコータロー氏の、活躍が見たいのだ。

 

 

蚊のみなさんごめんなさい。

 

 

 

 

(ちなみに、万が一の公園バレを避けるため、おじさんが練習していたものがブレイクダンスだというブラフをかけていたのだが、ちょっと無理があったかもしれない。

夜ごと、公園の砂利に頭部を擦りつけているおじさんを想像されていた方には非常に申し訳ないが、そんな人物はいない。

いるわけがない。

おじさんが練習していたのは、少なくともブレイクダンスではない、ということだけ、最後に言わせてほしい)

文・撮影=夏川椎菜 編集=宇田川佳奈枝

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