あの日過ごした部屋との思い出、騒音すら恋しく感じた東京の夜(まるいるい)

エッセイアンソロジー「Night Piece」

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エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」
「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。

宣材使用_まるいるい'21(BU)
Ⓒ吉本興業

まるいるい
1997年11月28日生まれ、神奈川県横須賀市出身。NSC東京23期生のお笑い芸人。吉本坂46(2期生)としても活動していた。自身の家族をテーマに綴ったエッセイやYouTubeチャンネル『まるいるいの逆襲』が話題になる。
X:@Rui_tontokoton
note:https://note.com/maruirui61
YouTube:『まるいるいの逆襲』

二十歳のとき、上京して三鷹に六畳一間の家を借りた。築40年。畳の香りが鼻をかすめるどこか昔懐かしいアパート。私はそのアパートが大好きだった。

20年間ともに過ごした家族と離れることを決め、ホームシックになることを覚悟していたのに、意外にも寂しかったのは最初のひと晩だけだった。

その家は朝から晩まで側を走る中央線の音が鳴り響く。壁が薄すぎてお隣さんのオナラも、ビール缶のプルタブを起こす音も聞こえる。今、『キユーピー3分クッキング』(日本テレビ)を観ているな、ということまで把握できた。

それから1年後。その家とともに過ごす2度目の夏を迎えたとき。

“ドドドドドドドドド”

5歳くらいの子供が天井裏を駆け回っているのではないかと疑うくらいの大きな足音だった。

“チュー”

ネズミだ。
屋根裏にネズミがいる。

まぁ、ここに建てられてから40年も経っていたらどこかに隙間もできるよな。仕方ない。大して気には留めなかった。

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そんなある朝、起きたら身体中がかゆかった。イエダニの仕業だ。このダニはネズミがいない限り家に発生することはめったにないらしい。実害が出たら放ってはおけなかった。かゆすぎた。皮膚科に行った。

大家さんに報告すると、すぐに魚肉ソーセージを吊るした鉄製で箱型の、原始的なネズミ捕りを持ってきてくれた。

それを仕掛ける際、大家さんは私の部屋の天袋を開けた。そして両手を上げたかと思うと天板をバコッと外した。屋根の裏が姿を現した。

大家さんに「見てみるか?」と問われたのでうなずいた。そして天板が外れたことで現れた隙間に上半身を突っ込んだ。

私の目の前には想像以上に広い空間が広がっていた。驚くべきことに、お隣さんの部屋との間に仕切りはなかった。お隣さんとそのまたお隣さんの間にも、そのまたお隣さんとの間にもだ。同じ階の全部屋の屋根裏がつながっていた。大家さんいわく今の建築法では作れない、作ってはいけない家の構造らしい。こりゃ音が筒抜けなわけだなと合点がいった。

そんなことを思っていると奥からガササッと音がした。大家さんはネズミ捕りを仕掛け、天板を元に戻した。これで平穏な生活が訪れるはず。

季節は冬になった。ネズミ捕りを設置したかいはまったくなかった。相変わらず5歳児が屋根裏を駆けていた。

そんなある日、管理会社からアパートの更新料のお知らせが届いた。引っ越しを決めた。ネズミとの共存はできなかった。

退去の日、大家さんと写真を撮ってもらった。

「写真を撮ってと言われたのは初めてだよ」

困ったように笑う照れ屋な大家さん。いつも長靴を履いていて、たまに畑で採れた野菜をおすそ分けしてくれた大家さん。小柄で日に焼けた笑顔がかわいい大家さん。鍵を返して2年間のお礼を告げ、お別れをした。とても寂しかった。

次に借りた家は板橋区のマンション。私はマンションにこだわっていた。大好きだったアパートを出た唯一の理由は騒音だった。静寂を求めていた。それなら木造アパートではなく鉄製マンションに住むべきだと考えた。

引っ越して最初に迎えた夜。先輩にLINEした。
「前の家が恋しくて涙が出ます。」

比喩ではない。本当に泣いていた。お別れしたときの大家さんの顔も浮かんできてよけいに泣けた。

「私も初めて借りた家を出たときは恋しかったな。でも、もう今はここが私の家で、一番落ち着く」
私はこの家をそんなふうに思えるだろうか。不安だった。

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とりあえず寝ようと布団を敷き、横になった。真っ暗な部屋。

鉄筋コンクリート造りのその部屋のお隣からはレゲエともヒップポップともつかない謎ジャンルの音楽が爆音でひっきりなしに流れている。壁が躍るのを感じる。音が振動になるということは相当な音量だ。ライブ会場かここは。話が違う。

こっそりドアを開けてお隣の様子をうかがうと、聞き慣れない言語での会話が聞こえた。外国人だ。料理をしている。嗅ぎ慣れないスパイスの匂いが漂う。

不安すぎた。私はこの家が本当に好きになれるだろうか。騒音からも解放されないではないか。

シクシク泣きながら、数時間爆音に耐えたが、我慢の限界が訪れた。管理会社はもうとっくに営業を終了している時間だった。

警察に電話しよう。生まれて初めて警察に通報した。

「事件ですか? 事故ですか?」
事故では絶対にないが、これは事件なのか……?
「じ、事件です」
そう告げると内容を聞いてくれた。時刻は午前5時。
電話を切ってから10分程度で駆けつけてくれた。音はピタッと鳴り止んだ。警察の方々には心から感謝した。

しかし、騒音は音楽だけではなかった。洗濯機の音だ。そのマンションは洗濯機置き場が玄関前にあったので、お隣さんの洗濯機の音が家の中まで鳴り響く。お隣さんの洗濯機は明らかに普通じゃなかった。一番音がひどいのは脱水のときだ。洗濯機自体が暴れてどんどん前に進むのだ。よく壊れずに使えているなと感心すら覚えるほどだ。

だが、音楽の騒音とは違って生活音に文句をつけるのは違うと思った。お互い様な部分もある。黙って暴れる洗濯機を見守ることにした。

慣れというものは怖い。数週間目の当たりにしていると、あまり気にならなくなってくる。

私が入居してから2カ月も経たずしてお隣さんは引っ越した。そこからは静かな暮らしが続いた。

入居当初は辟易していたはずの暴れ洗濯機がいなくなっていて、少し寂しいかもとすら思った。私は環境の変化に弱いけど、適応するのは早いのだなということに気がついた。

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引っ越して最初の夜はいつも心細くて不安になって、前の家が恋しくなる。だがその家を出たら、またその家が前の家になるのだ。

板橋のその家も、今では私の大切な家の記憶になっている。コロナ禍をともにした家。緊急事態宣言が発出され、丸1カ月こもった家。当時の相方たちがネタ合わせに訪れた家。温かい記憶。

東京に出てきてからの6年間。
7度の引っ越しをした。
あと何度こんな気持ちになる夜を過ごすのだろう。

文・写真=まるいるい 編集=宇田川佳奈枝

エッセイアンソロジー「Night Piece」