そこは美しい絶望の地だった──甘く、脆い夢を見た夜(伊東楓)
エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」
「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。
伊東 楓(いとう・かえで)
1993年10月18日生まれ、富山県出身。大学卒業後〜2021年までTBSにてアナウンサーとして活躍。フリーに転身後、2021年3月に初の絵詩集『唯一の月』を出版、atmos千駄ヶ谷店にて個展『変化の兆し』を開催。現在はドイツに拠点を移し、アーティストとして活動中。
夜は美しく、優しい。
世の中の雑音も、涙が出るほどの愛おしさも、孤独も寂しさも、何もかもを私から奪い去ってしまう。
始まりだったのか、それとも終わりだったのか。
あの夜、私たちがたどり着いたのは
夢のように悲しく
夢のように輝きに満ちて
夢のように美しい絶望の地だったのか。
その答えは、まだ誰も知らない。
ドイツに移住してから、あっという間に1年半が過ぎて、振り返る暇もなく走っているうちに、多くのものを置いてきたように思う。それを実感したのは、1カ月前の帰国のときだ。
久しぶりの日本だった。飽きるほど見たはずの東京の夜は、まるで別人のように思えた。こんなにも騒がしく、煌々として、どこか他人事で寂しかっただろうか。太陽とともに寝て起きる、自然の流れに抗わぬまま生きるヨーロッパの生活が、思った以上に自分の肌になじんでいるらしい。
東京の部屋に着いてホッとひと息つき、ベランダに出た。そこには変わらない美しい東京が広がっていた。白く光るレインボーブリッジが遠くに見える。
いつ見てもこの景色は変わらない。何ひとつ変わっていない。そう思ったら、なぜだか急に、言葉にできない切なさが胸に押し寄せた。代わり映えしない景色が、たった一夜の出来事を甦らせた。レインボーブリッジを見つめ、ふたりでたくさんの夢を語り合ったあの夜を。そして私は、もう二度と取り戻せない何かを思い出していた。
ちょうど1年前。
今思うと、あのころの私は、旅立ちの前の静けさに嫌気が差して、新しい刺激を探していたように思う。
そんなある日。その人は「つまらない」とつぶやく私を、夜のドライブに誘ってくれた。
車窓から流れる眩い都会の光をただ見つめて、交わす言葉も少なく、聴き慣れた音楽とともに、私たちはあてもなく夜の街をさまよった。最終的にたどり着いたのは、東京湾の浜辺だった。実にベタな展開。でも、私にとってはどれも初めてのイベントだったから、ワクワクする気持ちと少しの照れ臭さで、なんだか落ち着かなかったのを覚えている。
まさかこの人とこんな場所に来るなんて想像もしていなかった。
強い風に体を打たせて、ふらふらと砂浜を歩いた。ふたりの間には優しい沈黙が流れる。頬に触れる風は冷たいのに、私の熱は冷めないように思えた。
私たちはアスファルトの段差に並んで腰かけた。目の前には、吸い込まれそうになるような漆黒の海が広がっている。聞こえるのは柔らかいさざなみの音と、どこかではしゃぐ若者の楽しそうな声。遠くに浮かぶレインボーブリッジの光が海面に反射して、ゆらゆらと揺れていた。とてもキレイだと思った。
ぽつり、ぽつりと、口からこぼれ始めたのは、未熟で道半ばで、鋭く光る自分だった。
叶えたい夢がある。そのために日本を出て、世界に拠点を変えた。先は見えない。頼れるのは自分の直感と、果てしない情熱だけだ。時に、堪え難い孤独が私を襲う。それでも、私はその先を渇望している。
あの人は、ただただ黙ってそれを聞いていた。そして、あの人のうつろう瞳の中に強い何かが見えた。
私の心に渦巻く、羨望と憧れ。
“早くあなたに追いつきたい、世界で何かをつかみたい”
あの人の横顔を見つめながら、そっと心に火を灯す。そして、たどり着く場所が同じであればいいと、心から願った。私たちは、甘く、脆い夢を見た。
「ずっとこのまま、変わらず、そばにいて」
そのひと言が出かかって、飲み込んだ。熟していない果実を飲み込むような感覚だった。
変わらないものはない。私たちは常に変化の中で生きている。その事実を、私が誰よりも知っていた。だから、私にはたったひと言が言えなかった。悲しみとともに訪れたのは、透き通るような甘さと、穢れのないひと粒の希望だった。
あれから1年が過ぎた。
あの日のふたりは、もうどこにもいない。
そして、ふわふわと夢の中で理想を語る自分も、もうどこにもいない。
あのころ欲しかったものは、確実に少しずつ手に入って、永遠に暗闇の中で見えないと思っていた光が見えるようになった。同時に、私はいろんなものを手放してきたのだろう。夢のための代償は、最初から覚悟していた。それでも、こんなにも現状が変化していくなんて。過ぎ去った日々を思い返して、私は、まだ出ぬ答えを思い巡らせていた。
遠くの空が、次第に淡くなっていく。気づけば、静かで煌びやかな東京の夜が、もうすぐ明けようとしていた。
ああ、そうか。変わったのはほかでもない、私だ。
あの日のふたりに、偽りはひとつもなかった。あれもすべて真実だったと思う。しかし、私自身が先へ進むことを選んだのも、また真実なのだ。
あの日、あの瞬間、もしも違う選択をしていたら、私にも平凡な幸せが手に入ったのかもしれない。道が逸れてしまった今はもう、その答えは永遠にわからない。だけど、それでいいのだ。代わりに、私たちは別の景色を手に入れたのだから。
日が昇る前に、私は再び走り出す。
どんなにあのころが素晴らしくても、今以上に大切なものはない。うしろ髪を引かれるような思いも、孤独も、悲しみも、すべてをこの夜に置いていこう。未来への希望に胸を踊らせて、今は真っすぐに走り続けよう。
これから私が向かうのは、最も険しく、美しい最果ての地なのだから。
文・写真=伊東 楓 編集=宇田川佳奈枝