最高の父に“ありがとう”。濃い夜はあと何度訪れるだろうか(池田レイラ)
エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」
「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。
池田レイラ(いけだ・れいら)
2005年3月1日生まれ、東京都出身。2016年に親子コンビ「完熟フレッシュ」を結成。日本テレビ『ぐるぐるナインティナイン』内の企画である「おもしろ荘」に出演し、その後さまざまなバラエティ番組に出演。最近では大学進学も話題となり、バラエティ番組やラジオなど、芸人・タレントとしても幅広く活躍中。
Twitter:@kanjuku_layla
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まだ18年という短い人生しか歩んでいない私だが、どこかの18歳の女の子よりも少しだけ濃密な人生を歩んできているということはなんとなく自覚している。
とはいっても、小学2年生くらいまではいたって普通の、むしろどちらかというと引っ込み思案で物静かな女の子だった。当時は母、父、私の3人家族で、ものすごく裕福というわけでもなかったと思う。でも家族やまわりの人に無償の愛を与えてもらいながら毎日を過ごしていたとも思う。さすがにこれは自覚あり。そのおかげで我ながらすごくおしとやかでかわいらしい性格のままスクスクと育っていった。が、最初のほうで「小学校2年生くらいまではいたって普通」と書いてあるように、このあたりで人生一度目の“濃い夜”を経験することとなる。
なぜか今でも鮮明に覚えている。
いつもと変わらない雰囲気で、居間にあるテーブルにはテーブルが見えないくらいたくさんのお寿司が並ぶ。昨日と同じく、楽しく食卓を囲んでいた。幸せな気分のまま食事を終え、いつもどおりなら家族団らんの時間が始まるはずだった。
「レイラに話さなくちゃいけない大切なお話がある」
突然、母がそう言った。
大好きなお絵描きを始めようとしていた私の手が自然と止まり、ここで人生初めての“勘”が働いた。それも嫌なほうの。気まずそうな表情をしている父と母の正面に座り、幼いながらに声を振り絞りっておそるおそる「どうしたの?」そう父と母に問いかけた。
「明日からママとレイラは一緒に住めなくなっちゃうんだよ」
第一声、ママにそれだけ告げられた。
もちろん意味がわからない。あとあとうっすら知ることになるが、家庭内では何かといろいろ問題があったらしい。私は「子供だからわからない」と早い段階で目を背けた。今思えば、できた子どもだったと思う。というか、そうだったと信じたい。小学2年生のころの私と家族を否定してあげたくない気持ちがあるのだ。その晩、急いで荷造りをして翌朝には父方の祖母の家に送り出された。この夜が私の人生で一度目の“濃い夜”となる。
祖母の家には少しの間だけ滞在し、そこからは父と私と、助けに来てくれた祖父との3人で、東京での暮らしが始まる。3人での生活も数年が経ち、慣れてきたころ、祖父は祖母の待つ地元へと戻っていった。
ここから父と私の父子家庭ライフが本格始動するのである。
本当にこれでもかというくらい声を大きくして世界中の人に伝えたい。父(別名:池田57CRAZY)は、私にとって本当に素晴らしいパパだ。ものすごくまじめで完璧主義な性格。父曰く、お笑いには不利らしい。たしかに。
池田57CRAZYは、父親としては120点。ただ芸人としては20点。
これを父に伝えると、「じゃあ平均したら70点じゃん!」と喜ぶ。
違う。そういうことじゃない。
とりあえずお笑いについては置いておいて、父はまだまだ小さい私に向かって「そんなにお手伝いしなくて大丈夫だよ」とよく言ってくれていた。仕事が終わったらすぐにスーパーへ買い出しに行く父、帰ってきたらすべての家事をこなす父。そんな生活を何年か続けていたところ、ある日突然父が倒れた。
働きすぎによる過労で倒れたとのことだった。父が入院していたあたりのタイミングで、M-1グランプリが復活するという情報が回った。そこで父は「いつ死ぬかわからないから、やりたいことはやれるうちにやったほうがいい」と強く思ったらしい。
ある夜、「来年一緒にM-1出ようよ」と突然誘ってきた。え? なんで私?と思い、のちに理由を聞いてみたところ、私が小学4年生くらいのころに「将来は表に立つ仕事をしてみたい!」とポロッと発したひと言を覚えていたらしく、「これは使えるぞ」と思ったから誘ったらしい。馬鹿野郎(今となっては父の考えどおり、今の私の活動に繋がっているので感謝してもしきれない)。まぁそういった経緯によって私はお笑いの世界に足を踏み入れることになった。いや、踏み入れてしまった、の間違いか。人生が変わるきっかけとなる「お笑い」に誘われたその夜が、私の人生で二度目の“濃い夜”となる。
お笑いデビューをした年のM-1グランプリ2回戦のこと。
その日、もちろん私はものすごく緊張してネタをところどころ飛ばしてしまったが、それよりも緊張していたのが私の父、池田57CRAZY。なんでだよ。緊張により、父は私よりも多くのミスをした。
2回戦のネタも披露し終わり、浅草の雷5656会館をあとにして、近くの居酒屋で夜ごはんをふたりで食べた。さっきの反省会をしたり、親子のいつもどおりの会話をしたりしていたら、父の声がパッタリと聞こえなくなった。おかしいなと思い、父を見てみた。
めっちゃ泣いてた。めっちゃ笑った。
父は私とコンビを組む前からお笑いを十何年かやってきていて、きっと不甲斐なさもあり、涙があふれたんだと思う。父が泣いている姿を自分の目で見るのは人生で2回目くらいだったこともあり、すごく記憶に残っている。これが人生三度目の、私にとっての“濃い夜”となる。
ちなみに父は2年後のM-1グランプリでウケすぎて恥ずかしくなり、噛み倒して制限時間をオーバーしてしまい、袖にはけた瞬間に号泣していた。そんな父を見て、私はまた爆笑した。そのあと、日本テレビの「おもしろ荘」(『ぐるぐるナインティナイン』)のオーディションを受けることになる。最終オーディションではテレビ局の中にあるスタジオでお客さんの前でネタを試す。2次オーディションのとき、作家さんに「キミのキャラクターもあるからお客さんの前でネタをやってみて、受け入れられるか試したほうがいい」と言われていたので不安でたまらなかった。すごく緊張したまま舞台に立ってみると、一瞬で不安がふっ飛ばされるくらい多くの笑い声を感じた。そのとき生まれて初めて人生が変わった気がした。そこが人生で四度目の“濃い夜”。
昨日まで普通の大人しい中学生だったはずの私の人生が180度変わった。そこからは本当にいろいろな経験をして、高校受験を番組に密着してもらうこともできた。無事合格し、高校3年間通い、とても楽しい高校生活を送ることもできた。でも途中、そこから進路を決めなくてはいけなくなった。学生の運命。
私は私立高校の学費を父にすべて負担してもらっていたので、生活的にも金銭的にも父にはこれ以上迷惑はかけられないと思い、大学には通うつもりがなかった。もちろん父にもそういうふうに伝えていた。するとある日の夜に父が突然、「大学生活はものすごく楽しいし、一生の宝物になるよ。金銭的なことは何も気にしなくていいから受験するだけしてみたら?」と提案してくれた。本当に父に恵まれているんだなと痛感した。そのひと言のおかげで大学進学が選択肢のひとつとなり、私は今、大学で真新しい新生活を送ることができている。大学生になるきっかけをくれたあの夜は、一番記憶に新しい“濃い夜”だった。
まだまだ濃い夜はたくさんあるが、こうして振り返ってみると、どれも私だけの力で起きた夜ではなくて、まわりの人たちのおかげ、それもほとんどが父のおかげで迎え入れることになった濃い夜の積み重ねで、この夜があるから幸せな朝を迎えられているんだと苦しいほどにわかった。
私はまだまだ与えられている人生の中で、あと何度の“濃い夜”を迎えることになるのだろうか。
文・撮影=池田レイラ 編集=宇田川佳奈枝