絶望に陥った異国の地。大人になった自分に出会えた夜(光宗 薫)
エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」
「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。
光宗 薫(みつむね・かおる)
1993年生まれ、大阪府出身。俳優・絵画アーティスト。2011年〜2012年にAKB48のメンバーとして活動後、俳優・モデルなど多方面で活躍中。2011年頃より独学でボールペン画を描き始め、2013年から定期的に個展を開催。近年は鉛筆や水彩絵の具、油絵の具など幅広い画材を用いて夢幻的な昆虫や空想の生物等を描く。
Instagram:https://www.instagram.com/mtmnkor/
Instagram:https://www.instagram.com/mtmnkor.art/ (主にボールペン画の情報を発信)
Twitter:https://twitter.com/mtmnkor
どこの国にも毎日夜が来る。
一気にではなく、それぞれゆっくりと順番に。
地球は丸く、明るく照らす太陽は地球の外側にひとつしかないからだ。
一点の光源は球全面を平等には照らせない。原理としてはわかるけれど、今この瞬間、どこかの国とは時間も日の高さもまるで違うというのはなんだか不思議だ。
日本が昼のころ、イギリスは夜。
私はその夜、ロンドンにいた。
29歳になって初めて現実的に、海外へ旅行に行ってみたいと思った。
理由はひとつではないけれど、春先に個展を終え、常に追われていた個展準備から解放されたことが最も大きい。
準備期間は心にも時間にも余裕がない上、完全なひきこもりルーティン生活になってしまうため、海外旅行はその対の最たるものとして魅力的に映っていた。
仕事でアジア圏を行き来することは何度かあったけれど、飛行場と仕事現場周辺を必要最低限歩く程度で、行った国の記憶や思い出は正直あまりない。
今こそ、海外へ行くタイミングかもしれない。
そんなふうに思っていた最中、友人からUALというロンドンの芸術大学にショートコースがあるという話を聞いた。週末だけ外部の者が受けられるカリキュラムだそうで、とても楽しそうだった。
旅行願望のあった私にとっては背中を押されるような話だ。
私はショートコースの話を聞いたその日にロンドンへ行くことを決心し、2カ月後には成田空港から飛行機に飛び乗っていた。
そもそも海外旅行初心者からすると、何を準備し、何を留意すればよいのかさっぱりな上、英語もまったく話せないのだけど、完全なる勢いとポジティブ思考で2週間ちょっとの滞在予定を組んだ。
結果からすると、なんとかなった。
正しくは、その日の夜まではかろうじてなんとかなっていた。
滞在期間最終日の夕方、行きたい場所へ行き尽くし、UALでも実りある学びを得た私は充実感を胸に東京へ戻るため飛行場へ向かった。
けれど、チェックイン直前にコロナワクチン摂取済みの証明アプリの登録ができていなかったことを思い出す。
急ぎ足で登録を行っていると、アプリからマイナンバーカードのパスワードを求められた。
全然覚えていない。
とりあえず自分が最も記入しがちなパスワード候補を打ってみる。
エラーが出る。
別のパスワード候補も打ってみる。
再びエラー。
もう思いつく数字の羅列がないため、改めて一度目に打ったパスワードを再度打ってみる。
ここで3度目のエラーとなって自動的にロックがかかってしまった。
画面にはお住まいの区役所、市役所へ行きパスワードロックを解除してくださいとある。
お住まいの地域へ戻るためにこうしてパスワードを入力しているのだから、お住まいの区役所へ行けるならこのアプリにも用はないんやで。
そう感じながらも背筋が凍った。
2022年10月現在、日本へ入国するためにはワクチン摂取証明書もしくはアプリでの証明、または出発の72時間以内に現地でPCR検査を行い陰性である証明書をもらわなければ、チケットとパスポートがあっても搭乗できないのだ。
絶望。
とりあえず何かの間違いでチェックインできないものか、試しにカウンターに行くも当然ながら突き返される。
私は飛行場で大きなキャリーケースをかかえ立ちつくした。
けれど私も大人になったもので、しばらく呆然と現実を受け入れる時間を取れば多少冷静になれた。
とりあえず今日泊まる宿を探そう。
大丈夫、失ったものは多額のお金だけ。旅で最も大切なことは自宅へ戻るまで心身健康でいることだと聞いたことがある。
新たに見つけたドミトリーへ移動し、大きなキャリーケースを置いて新規で片道の飛行機とPCR検査所を調べ、すべての予約が完了したころには24時を超えていた。
私は夜食を買いにマクドナルドを目指した。
界隈はロンドンのブルームスベリーという大英博物館やロンドン大学のある都市部で、夜も治安は悪くはないけれど、良いとも言い難い。
ジャケットを着ても肌寒く、英語が遠くで行き交っている。
大きな工事音と車の音、ふらふらとした歩き方で道を歩く人が等間隔で何人か。
今夜もなぜかひとり、海外にいる。
旅行へ来て以来最も冷静で客観的な感覚で、ロンドンの街を歩く自分を見ていた。
行き当たりばったりで頼りないいつもの自分。
けれど私はそこに成長も感じていた。
昔から危なっかしさは変われないけれど、何かが起きた際にすぐさまリカバリーのできるメンタルは過去には持ち得なかっただろう。
なんなら近年は「楽しませてくれるぜ」とおもしろがれる余裕すら持ててきた。
そうなれば失敗もひと口に恐ろしいネガティブなものではなくなり、やれることは増えるのだ。
こんな考えなしの自分を飼い慣らせてきた自分、なんだか大人になったなぁ。
この先も物事をスムーズにスマートにこなすことはきっとできないけれど、それでも楽しくやれそうだと自信の持てた夜だった。
マクドナルドで買ったホットコーヒーは帰り道で脇に抱えていたらつぶしてしまい、ジャケットは汚れた。けれどおいしかった。
文・撮影=光宗 薫 編集=宇田川佳奈枝