憧れの街“東京”で、うまく呼吸ができなくなった夜(中田クルミ)
エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」
「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。
中田クルミ(なかた・くるみ)
1991年12月21日生、栃木県出身。俳優。主な出演作ドラマ『凪のお暇』(2019/TBS)、『この恋あたためますか』(2020/TBS)、『コールドケース3』(2021/WOWOW)、『リコカツ』(2021/TBS)、『30までにとうるさくて』(2022/ABEMA)、『ケイ×ヤク』(2022/YTV)映画『こんな夜更けにバナナかよ』(2018/前田哲監督)、『事故物件 恐い間取り』(2020/中田秀夫監督)、『あの頃。』(2021/今泉力哉監督)などがある。趣味・特技はクラシックバレエ、スキー、書道、イラスト、マンガ、ゲーム、編み物、スニーカー、ガジェット。
Instagram:https://www.instagram.com/kurumi_nakata
自分の心に残る夜について考えると、“東京”という夢のような街で、うまく呼吸ができなくなった日のことを思い出す。
上京してすぐの夜。
仕事を始めたての夜。
神様のような人に出会った夜。
人混みの中でうまく会話ができなかった夜。
オーディションに落ちた夜。
罵詈雑言を吐かれた夜。
こめかみの奥に緊張が走り、だんだん音が遠くなる。
さっきまで無意識に行われていた呼吸のことを突然考え始め、吸って吐くだけのことに神経を張り詰める。
足元に突然真っ黒な影が広がり、そのままその影が大きな穴になり、いっそのこと落ちてしまえばいいのにと、膝を震わせながら考える。
どの夜にも共通して言えるのは、自分が思い描いていた“東京”と、田舎者の自分がせっせと作る“東京”のことを考える夜だったということ。
うまく伝わるだろうか?
そんな夜を思い出しながら、私の中の“東京”について話したい。
単線の終点。1両編成の電車が1時間に1本しか走らないような場所で育った。
まわりはもちろん田んぼだらけ。山に囲まれて、1学年40人しかいない学校に通った。
学校帰りにたむろする場所なんてもちろんないし(一緒にたむろする友達もいないし)、家に帰ってすぐパソコンを開き、夜中までインターネットに没頭するのが日常。
ファッションが大好きで、『Zipper』や『CUTiE』、ストリートスナップ誌を買い漁り、お気に入りのスタイリングを切り抜いて、好きな映画のポスターと一緒に部屋の壁に貼りまくった。
もちろん私の住む街にこんな格好をした人たちはいないし(上下スウェット、足元はキティサンで、前髪にダッカールクリップをつけた人たちばかり)、矢沢あいさんのマンガの世界から飛び出たような人たちであふれる華やかな街への夢がふくらむばかりだった。
人一倍、“東京”という未知の世界への憧れが強かったと思う。
私が上京したのは18歳のとき。大学に通うために地元を離れた。
埼玉にある校舎に通い、川崎にある親戚の家に居候していたので、上京は若干失敗しているが、私にとっては新しい人生の始まりのような気持ちだった。
大学の専攻は芸術学部、映画学科。
宮藤官九郎さんの脚本作品を観て俳優になりたいと決意し、そこから必死で勉強して入学した憧れの場所。宮藤さんの出身校でもある。同級生はキテレツで刺激的な人ばかりだ。
入学と同時ぐらいに、運よく読者モデルの仕事がスタートした。
田舎にいるとき必死に切り抜きをしていた、憧れのファッション雑誌である。
もしかしたら俳優になるきっかけがつかめるかもと、必死でモデルの活動をした。
原宿で人気のアパレルショップでアルバイトも始めた。
そのお店でしか買えないような服や靴をたくさん売って、自分でもたくさん買った。
他人の目を気にしない、自由な服装に身を包んだ友達がたくさんできた。
大学の同級生が教えてくれた映画は、地元のレンタルショップでは置いていないような、見たことのないタイトルばかりだった。
iPodを丸ごと貸し借りして、おもしろい友達が聴いている音楽をたくさん吸収した。
田舎の小さな町で雑誌やインターネットの中でしか見られなかった“東京”での生活が、本当に存在していたことがうれしくて仕方なかった。
夢と現実が本当に半分ずつ存在するような生活で、無我夢中で毎日を過ごした。
これを言うとよく驚かれるのだが、当時私が出ていた雑誌には、スタイリストさんやヘアメイクさんが一切存在しなかった。
モデル自身の個性やファッションセンスにファンがつくような雑誌だったので、それが当たり前だったし、なんの疑問も持たなかった。
撮影の数日前には、自分が着る服のスタイリング組みをするために、九段下にある編集部へ向かう。ほとんどが学校帰りかアルバイト帰りの夕方だった。
「今回の企画は1週間コーデなので、普段の生活に合わせたスタイリングにしてください」
ライターさんからそう言われ、リースされてきた大量の服の中から、自分の好きな服を選んでコーディネートを組んでいく。ちょっといい服やかわいい服は、人気モデルの子たち用にキープ済みだ。残りものから早い者勝ちで選んでいく。
「次の企画は『全身1万円以下』がテーマです。10体分組んでくださいね」
300円のデニムと100円のブラウスがどうやったらチープに見えないかを必死に考える。私物の靴や小物をスーツケースに詰めて持って行き、それを引っ張り出しながらコーディネートを組んでいく。この私物は何度も誌面で使っちゃったから新作買わないとだな、とか思考を巡らせる。
「クルミちゃんは少し太っているから、誌面でダイエット企画を始めるね」
全身のサイズを採寸して、編集部の角の白壁で薄着の全身写真を撮った。自分だけの企画を組んでもらえることなんてなかったから、これはありがたいことなんだと言い聞かせた。最初で最後の個人企画だった。
たくさんの洋服に囲まれて過ごす時間は、すごく楽しかった。
次に欲しいアイテムを思い浮かべたり、こんな組み合せもアリかも?と私生活よりも思い切ったスタイリングを考えたりして、モデル友達と盛り上がったりした。
どれだけ大変でも、誌面に載れることは心の底からうれしかったし、初めて社会で必要とされている実感があった。
編集部を出るのはだいたい夜中だ。
東京に住む人気モデルの子は家までタクシーを出してもらえたりしたが、私はいつも電車で帰った。ファンは少ないほうだったし、家は川崎だから。
九段下の街はスーツを着た大人たちばかり。髪をツートーンに染め、ボロボロに破れたデニムに古着屋で買ったNIKEのJORDAN3を履き、私服が詰まった大きなスーツケースを運ぶ私は、この街だと明らかに異分子だ。
あのスタイリングにはこんなヘアメイクをしよう。
先月買ったあの靴のほうが、さっきのコーデには合うかもしれない。
そういえば、観たかった映画が早稲田松竹で観られるのは今週までだから、明日学校帰りに行けるかな。
その前に、家に帰ったら課題やらないと。
撮影日の前には髪を染めに行かなくちゃ。
そんなことをふわふわと考えながら、スーツ姿の大人たちと足並みをそろえ、地下鉄の入口に向かって靖国通りを歩く。
夢のような場所にいるんだ。
憧れだった生活をしているんだ。
私は今、すごく幸せだ。
喜びをぐっと噛み締め、深呼吸しながら夜空を見上げる。
突然、頭の奥で小さな電流が走る。
自分の呼吸の音が聞こえたと思ったら、クラクションの音にかき消される。
頭上では首都高が空を塞ぎ、都心環状線を走る車の走行音が響き渡る。
鼻の奥で異様な匂いを感じる。
首都高の真下には日本橋川が流れている。
黒くよどんだ川には、ビニール袋のゴミが無数に浮かんでいた。
高層ビルの光、無数の街灯、車のヘッドライトで照らされた異様に明るい街並みと、音もなく流れている底の見えないドブのような川。
そのちょうど真ん中に私は立っていた。
気づいたら足は止まっていて、スーツ姿の大人たちは無表情でその横を通り過ぎる。
梅雨が明け、熱気と湿気を含んだ夜の空気が広がってゆく。
今、私がここで大きな声を出しても、車の音に全部かき消されていくだろう。
この川に大切な何かが落ちたとしても、あのビニール袋のように静かに沈んでいくだけだろう。
下唇をぎゅっと噛んだ。
涙がこぼれないように必死に体に力を入れた。
孤独と焦燥と不安が全部一気に押し寄せ、全身に鳥肌が立つ。
イヤホンをつけ、少し震える手でiPodの再生ボタンを押す。
騒音と異臭でいっぱいになっている頭の中を、椎名林檎さんの声で満たしていく。
「生きているうちはずっと旬だと そう裏付けて
充たして いまを感じて覚えて何時もより
生きて 生きて 活きて居よう」
もう一度大きく深呼吸する。
自分の息の音が聞こえる。
もう、大丈夫だ。
顔を上げて、駅の方向へ歩み始めた。
靖国通りは日本武道館方面にまっすぐ伸び、ゆるやかな上り坂になっている。田舎の空とは比べものにならないけど、少しだけ開けた夜空も見られる。
私は“東京”で生きている。
とっておきの服に身を包み、華やかな明日を想像しながら、どどめ色の空気を吸って吐いて、なんとか歩いていく。
10年暮らしていても、こんな夜は何度も何度もやってくる。
あの川に心が沈んでしまいそうな夜を何度も乗り越えて、私はこの街で、憧れの“東京”を作っていきたい。
文・写真提供=中田クルミ 編集=高橋千里