目に見えない漠然とした呪い、自問自答を重ねたあの夜(橘 花梨)

エッセイアンソロジー「Night Piece」

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エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」
「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。

橘花梨

橘 花梨(たちばな・かりん)
1993年生まれ、東京都東村山市出身。俳優。2008年にCM「牛乳に相談だ。」でデビュー。以降、舞台・ドラマ・映画など幅広く活動している。2018年に演劇ユニット「カリンカ」を旗揚げし、企画・プロデュース・出演を兼任。俳優主体の創作を掲げ、定期的に公演を行っている。2026年2月25日〜3月8日に、新宿シアタートップスにて開催される舞台アナログスイッチ『寝不足の高杉晋作』に出演する。
X:@TachibanaKarin 
Instagram:@tachibana_karin

「待つことは、俳優の仕事のひとつである」と言われたことがある。
わたしはこの言葉に納得していたし、どこか呪いのようにも受け取っていた。

オーディションが来るのを待つ。
結果が出るのを待つ。
はたまたオファーが来るのを待つ。
たしかにいつも待っている。

映像の現場では、物理的な待ち時間も長い。
俳優に限らずあらゆるセクションから「今、何待ち?」なんて言葉が飛び交っている。

なんだろう。そういう、目の前にある「待ち」は、いくらでも待っていられる。
現場に居られること、仕事があることに満たされて、待ち時間もこれといって苦にならない。

でもわたしは、目に見えない漠然とした「待ち」を、もう待つことができなくなっていた。

ちょうど8年前の真冬。
当時24歳、二十代も半ばに差しかかっていたわたしは、かなり焦っていた。

Unknown

鳴かず飛ばずの芸能活動。デビューからもうすぐ丸10年になる。
俳優として売れたい。
どうしたら売れるのか、そもそも売れるとはなんなのか。
このまま待ち続けていいのだろうか?
自問自答を重ねるうちに、動きたい、自ら進まなくてはいけない、そう思うようになっていた。

あれこれ考えた末にわたしは、一人芝居をしてみようと思い立った。
昔から、思い立ったら即行動。行動に移すことだけは、なんかできるほうだった。
演劇ユニットを旗揚げて、一人芝居の公演を打つことを決意した。

覚悟を決めたあの夜は、わたしにとって宝物となった。

その日、マネージャーさんとなじみのカメラマンさんふたりに頼み込んで、所属事務所の撮影スタジオに向かった。
この決意表明を、新鮮なうちに記録として、形として残しておきたかったのだ。
わたしは東急ハンズでかき集めた、どデカい黒のロール紙、ガムテープ、カラースプレー、絵の具、大きな筆を持参した。
さっそくロール紙をスタジオの壁いっぱいに広げて、ガムテープでペタペタと貼っていく。雑多な黒壁が完成した。

始める前に服も着替える。
「何色にでも染まってやる」そんな気持ちで真っ白なTシャツを着た。
汚れる予感がしたのでズボンは履かなかった。
なぜか髪の毛も、スプレー缶で真っ白に染めた。

何かを察してくれたのか、カメラマンさんがパンクな音楽をかけてくれた。良い。始められそうだ。
今から何が起こるのか自分でもわからないけれど、とにかく思うままにやってみよう。
わたしは筆に白い絵の具をつけた。黒壁に書いてみる。書きたいことがどんどん降りてきて手が止まらない。
胸の奥から何かが噴き出していくようだった。
「演劇」「人生」「売れてる奴全員敵」「小劇場破り」「Eカップです」
カップ数を書く必要があったのかはわからないけれど、粗っぽくて、正直な、剥き出しの言葉たちが黒壁、そして足元いっぱいに埋まっていった。

黒いロール紙が文字だらけになったところで、絵の具をつかんで自分自身に叩きつけていた。
赤、青、黄色。色が混ざり合い、ぐちゃぐちゃに広がっていく。
手のひらが熱くなって、夢中で自分を汚していた。

気がつけば、服も脱いでいた。

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そんな姿を、カメラマンさんはずっと撮ってくれている。
絵の具まみれで髪も服もぐちゃぐちゃ。
やりきった自分が収まっていた。

ふと我に返る。情熱的な言葉たちとパレットのような自分の姿に笑ってしまった。
そしてこのとき、あ、これはいける。そう思った。

撮影が終わったあとは、銭湯に行くつもりだったけれど、鏡に映った自分の姿を見てすぐにあきらめた。

絵の具まみれの人間が、お風呂場どころか脱衣所にも入れてもらえるわけがない。
スタジオの水で洗えるだけ洗った。
真冬の水は容赦なく冷たかったけれど、寒さはほとんど感じなかった。

結局、汚れが落ちきらぬまま、カメラマンさんとマネージャーさんと飲みに行った。
顔や髪に汚れが残っているのを笑われても、なぜかうれしかった。
「自ら動いた」証に思えて、ビールはいつにも増しておいしかった。

後日、この日の写真は、『橘花梨一人芝居』公演のフライヤー写真に使用した。
我ながらインパクトのあるいいチラシだったと思う。

橘②

あの日から8年。
俳優活動と並行して、あのとき旗揚げした演劇ユニットの公演を定期的に主催し続けている。
今では、「待つ」ことを楽しめるようにもなったし、焦らず立ち止まることの大切さも知った。
ライバル意識より、仲間意識のほうが強くなった。敵は、自分自身であることにも気がついた。
でも、あのとき必死にもがいていた自分は今でも愛おしく、その瞬間を思い出すだけで、力が湧いてくる。

わたしはあの夜の写真が大好きだ。
新しいわたし自身を旗揚げた夜。きっと、始まりの夜だった。

文・写真=橘 花梨 編集=宇田川佳奈枝

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