天井に映し出された天の川、姉とふたりきりの寝つけない夜(酒井若菜)

エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」
「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。

酒井若菜(さかい・わかな)
1980年9月9日生まれ。女優、作家。数々のドラマや映画に出演。2008年に小説『こぼれる』(キノブックス)を発表し、作家デビューを果たす。また、2012年にエッセイ集『心がおぼつかない夜に』(青志社)、2016年に対談&エッセイ『酒井若菜と8人の男たち』(キノブックス)、 2018年に『うたかたのエッセイ集』(キノブックス)を出版。近作ドラマに、読売テレビ『恋愛禁止』、テレビ東京『マイ・ワンナイト・ルール』、NHK連続テレビ小説『おむすび』など
「今夜は帰ってこられないからね」。
そう言って両親が外出するのは珍しいことだった。
今思うと、両親もまだ若かったのだから、たまにはふたりでデートでもしたかったのだと思う。
そのころ、姉は子供部屋でひとりで寝て、私はまだ両親と寝ていた。だからたぶん、小学校高学年と低学年くらいの年頃だったのだろう。
その夜、私は初めて姉とふたりきりで、両親の寝室で夜を越えた。
真っ暗な部屋の中で布団に包まれた私たち。
『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』の話や、バカ殿の「だーいじょーぶだぁー、うぇ、うぉ、うぁ」を交互に言ってみたりした。
いつもよりも夜更かしをしてケラケラ笑ったはずなのに、私はなかなか寝つけなかった。
それはそうだ。両親のいない夜は初めてだったのだから。
夜の黒は、どんどん深みを増していく。
次第に怖くなっていった。
いつもは気にならない天井の木目がお化けに見える。消したブラウン管のテレビに何か映った気がする。両親が明日になっても帰ってこなかったらどうしよう。今にも泣き出しそうだった。
3才年上の姉の一人称は「おねぇ」だった。
だから彼女の友人たちはみな、彼女を「おねぇ」と呼んでいた。彼女は誰からも慕われるような学校の人気者。
運動会で応援団長もやるし、リレーは裸足でアンカー。いわゆる一軍中の一軍。おとなしい私とは真逆のタイプ。
ショートカットで、ニカッと笑うと日焼けした肌から真っ白な歯がのぞく。
家庭科でパジャマを作ることになったら、みんなサンリオやディズニー柄、もしくはシンプルなチェックやストライプ柄の布を持っていくなか、姉は唐草模様の布を持っていってクラス中の爆笑を取るような人だった。
どちらかというと体格がよく、私は彼女の、筋肉質でボコッとしたししゃものようなふくらはぎがかっこいいと思っていた。
でも。
ただひとり、彼女を「おねぇ」と一度も呼んだことがなかったのが、妹の私だった。
今考えると不思議だが、私は幼いころから家族に対しても人見知りをするような子供だったため、家族とすらうまく打ち解けられずにいた。
もちろん、両親がいない夜を「怖い」と感じられたり、姉が一緒に寝てくれたりはしたわけだから、ある程度の「普通さ」はあったのだろう。しかし、子供らしさというものが極端になかったのが幼いころの私だった。
夜の黒は鈍みを見せ、静けさ、静けさ、静けさ。
鼓動と妄想が支配する世界は、もはやうるさい。

そのうちに、雷が鳴り始めた。
口数ならとっくに減った私たち。
ふと、姉が布団から手を伸ばした。
頭の上に置いてあった懐中電灯。
姉がそれをパッと点けると、天井が丸い光で照らされた。
その懐中電灯があんまり古いもんだから、錆びがたくさんついていて、丸い光の中に無数の黒点が映し出された。
「ほら見ろ、星空みたいじゃん」
私は少しうれしくなった。
「ほんとだね。星空みたい」
「あれがカシオペア座だとすんべ。そしたらあれはさ」
「わ、ほんとだ! ってことは、あれとあれをつなげたら北斗七星だ!」
私たちは声を潜ませながらクスクス笑った。
姉が突然、シンクロナイズドスイミングのように、右足をガバッと上げた。
懐中電灯の丸い光の真ん中に、姉のふくらはぎの影が映し出される。
姉は、研ナオコさんの「ゆんーでたーまごー」(ゆで卵)の言い方で、「あんーまのーがわー」(天の川)と言った。
クラッカーが弾けるように、私たちは爆笑した。
天の川だ、天の川だ! 私がはしゃぐ。
おねぇの太い足もたまには役に立つだろ! 姉が笑う。
もう一回やって! もう一回! 私がリクエストする。
いいよ! もう一回だ! 姉がまた足を上げる。
雷の音を必死に隠すように、夜の黒を意地でも引き裂けるように、ギャハハハハと大声で笑う私たち。
いつ寝たのか、翌日どんなふうに起きたのか、まったく憶えていない。
私は、いまだにこの夜のことを思い出す。
あの夜、姉もまだ子供だった。
姉は怖くなかったのだろうか。寂しくなかったのだろうか。不安じゃなかったのだろうか。
普段は子供部屋でひとりで寝ている姉が、幼き妹と寝るために、慣れない両親の寝室で布団に入ったとき、彼女はどんな気持ちだったのだろうか。
ただひとつ確かなのは、あの夜、たしかに彼女は「おねぇ」で、私は「妹」だった。
美しい星空はさんざんっぱら見てきた。
サハラ砂漠の夜、ハワイの夜、カリブ海の夜、東南アジアの夜、泣きやめないまま見上げた東京の夜。
世界中の星空を見てきた。
しかし、私にとって一番美しかった星空は、錆びた懐中電灯が天井に映し出したあの空で、筋肉質なふくらはぎが映し出したあの天の川で。
今もまだ、あれ以上に美しい星空を見たことはないのである。
文・写真=酒井若菜 編集=宇田川佳奈枝